わたしの羊はわたしの声に聞き従う」と主は言いました。主が戻られ、羊を集めていると分かりました。主を待つとは主の声を探し求めることですが、問題は主の声をどうやって聞くのか知らないことです。神の声と人間の声の区別がつきません。絶対に主の声だと分かるにはどうしたらいいですか?

    解答: 神の声を聞くのに、人としての資質や経験の長さは関係ありません。信仰において、主イエスの言葉を聞いた時どう感じるでしょう?主の言葉について経験も認識もないのに、聞いた瞬間に、それは真理であると感じて、権威と力があると分かるでしょう。その感覚というのは経験から来るものでしょうか?霊感と直感から来るのです。その証拠に、心と霊がある人は神の言葉が持つ力と権威を感じられます。これが神の声を聞くということです。さらに、神の声と人間の声の最大の違いは、神の声は真理で、力と権威があり、すぐに分かるということです。言葉にできるかどうかはともかく、気持ちははっきりしている。人間の声はもっと簡単です。聞いた瞬間理解できると感じるのです。その言葉には力や権威が全くなく、真理があるとも思えません。これが神と人間の言葉の違いです。例を挙げましょう。主イエスの言葉には力と権威があり、聞いた瞬間真理だと分かります。しかも言葉は奥深く、謎めいていて、人間の計り知れない意味があることは間違いありませんね?それでは聖書にある使徒の言葉はどうでしょうか。大半が聖霊の啓示を受けていますが、権威も力もありません。正しくて、人の役に立つだけです。お聞きしますが、主イエスのような言葉を話せる人はいますか?誰も話すことはできません。つまり主の言葉は神の声だという証拠です。こうして比較すれば、神と人間の声を聞き分けることができますね?

    全能神の言葉を読んで、全能神の言葉が真理であり、神の声か確かめてみてください。全能神は言われます。「宇宙の隅々までわたしはわたしの働きを行っている。東方では、雷のような轟音が終わることなく発生し、すべての国々や宗派を震わせている。すべての人々を現在に連れて来たのはわたしの声である。わたしはすべての人々がわたしの声により征服され、みなこの流れに落ち、わたしの前に帰服するようにする。わたしはずっと前に全地からわたしの栄光を取り戻し、東方で新たにそれを発したからである。わたしの栄光を見ることを願わない者がいるだろうか。わたしの再臨を心待ちにしない者がいるだろうか。わたしが再び現れることを渇望しない者がいるだろうか。わたしの愛らしさを思慕しない者がいるだろうか。光の元へ来ようとしない者がいるだろうか。カナンの地の豊かさを見上げようとしない者がいるだろうか。『贖い主』が再び来るのを待ち望まない者がいるだろうか。偉大なる全能者を敬慕しない者がいるだろうか。わたしの声は全地の隅々まで広められるであろう。わたしはわたしに選ばれた者に向かって、彼らにもっと話しかけたいと願う。山々や川を震わせる強大な雷のように、わたしは全宇宙と人類にむかってわたしの言葉を話しかける。そしてわたしの口にある言葉は人の宝になり、すべての人々はわたしの言葉を大切にする。稲妻が東から西へひらめき渡る。わたしの言葉は、人が決して手放したくないもの、そして測り難いものであるが、それ以上に彼らにさらなる喜びをもたらすものである。生まれたての赤児のように、すべての人々は喜びに満ち、わたしの到来を祝う。わたしはすべての人々を、わたしの声によってわたしの前へ連れて来る。その時から、わたしは正式に人類へ入る、人々がわたしを礼拝するために。わたしから放たれる栄光とわたしの口にある言葉によって、人々はみなわたしの前へ来るようになり、稲妻が東方から閃くこと、またわたしが東方の『オリーブ山』に降ったことも知るようになる。彼らはわたしがずっと前からすでに地上にいたことを知り、『ユダヤ人の息子』ではなく、東方の稲妻だと知るだろう。なぜならわたしはずっと前に復活し、人々の中から去って、その後栄光と共に再び人々の中に現れたからである。わたしは幾時代も前に崇拝された神であり、幾時代も前にイスラエル人によって見捨てられた『赤児』である。それだけでなく、わたしは今の時代の栄光に満ちた全能神である。すべての者をわたしの玉座の前に来させ、わたしの栄光に満ちた顔を見させ、わたしの声を聞かせ、わたしの業を見上げさせなさい。これがわたしの心の全てである。これがわたしの計画の結末であり、クライマックスであると同時に、わたしの経営の目的でもある。すべての国々にわたしにひれ伏させ、すべての人にその言葉でわたしを認めさせ、すべての人にわたしを信頼させ、またすべての人がわたしに服従するようにしなさい。」(『言葉は肉において現れる』の「七つの雷が轟く──神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言」より)

 「わたしが全宇宙に向かって話すと、人間はみなわたしの声を聞き、そこで、わたしが全宇宙で行ってきた業を見る。わたしの心に逆らう者、つまり、人間の行いでわたしに敵対する者は、わたしの刑罰を受けて倒れる。わたしは天の多くの星々を取ってそれらを新しくし、わたしにより、太陽と月は新たになる──空はもはや以前のものではない。地上の無数の物事が新たになる。すべては、わたしの言葉により完全になる。全宇宙の多くの国々は、新たに区切られ、わたしの国に置き換わる。地上の国々は永遠に消え去り、わたしを崇める一つの国になる。地上のすべての国々は破壊され、存在しなくなる。全宇宙の人間のうち、悪魔に属する者はみな、滅ぼし尽くされる。サタンを礼拝する者はみな、わたしの燃える炎に倒れる──つまり、今、流れの中にいる者以外は、灰になるのだ。わたしが多くの民を罰するとき、宗教界にいる者は、わたしの業に征服され、程度の差はあれ、わたしの国に戻る。彼らは『聖なる方が白い雲の上に乗って』降臨するのを見たからである。人間はみな、種類に従い、それぞれの行いに応じて刑罰を受ける。わたしに敵対した者たちは、みな滅びる。地上での行いがわたしと関わりのなかった人たち、その人たちは、自分たちの行いによって、地上にわたしの子らとわが民の支配下で存在を続ける。わたしは無数の人々と無数の国々にわたしを現し、わたしは自ら声を発して地上にわたしの大いなる働きの完了を告げ、全人類が自分たちの目でそれを見られるようにする。

 ……わたしが世界を創ったとき、わたしはすべてのものをそれぞれに創った。すべての形あるものをそれぞれの種類に集まるようにした。わたしの経営(救いの)計画が終わりに近づくと、天地創造当初の状態を回復させ、すべてを本来の姿に戻す。すべては大きく変わり、すべてはわたしの計画の内に戻る。時は来た。わたしの計画の最後の段階が終わろうとしている。ああ、不浄な古き世界。必ずや、わたしの言葉に倒れる。必ずや、わたしの計画で無になる。ああ、無数の被造物たち。あなたがたは、みな、わたしの言葉の内で新たないのちを得る。今、あなたがたには主がいるのだ。ああ、純粋でしみ一つない新たな世界。必ずやわたしの栄光の中でよみがえる。ああ、シオンの山よ。もはや沈黙するな。わたしは勝利の内に帰ってきた。創造の中から、わたしは全地を調べる。地上で、人間たちは新たな生活を始め、新たな希望を得た。ああ、わが民よ。どうして、あなたがたがわたしの光の中で復活しないでいられようか。どうして、あなたがたがわたしの導きの下、喜びに跳ね上がらないことがあろうか。地は歓喜の声を上げ、水は楽しい笑い声を響かせる。ああ、よみがえったイスラエルよ。わたしの約束をどうして誇りに感じないことがあろう。誰が泣いたのか。誰がうめき声を上げたのか。かつてのイスラエルは、もうない。そして、今日のイスラエルは立ち上がった、塔のようにまっすぐに、この世に、すべての人間の心の中に立ち上がった。今日のイスラエルは必ずや、わが民を通じて存在の源を得る。ああ、忌まわしいエジプトよ。まことに、もうわたしに敵対はしないだろう。どうしてわたしの憐れみを利用してわたしの刑罰を免れようとするのか。どうしてわたしの刑罰の内に存在できないのか。わたしの愛する者はみな、必ず永遠に生き、わたしに敵対する者はみな、必ず永遠に刑罰を受ける。わたしはねたみ深い神だから、わたしは人間の行いを軽々しく赦さない。わたしは地上すべてを観察し、世界の東に義と威厳、怒り、刑罰をもって現れ、すべての人間たちにわたしを現す。」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第二十六章」より)

 全能神の言葉を読むと同じ感情になり、神が人類に語られていると分かります。神以外に誰が人類に語ってくれるのでしょうか?人類を救うという神の意向を他の誰が示すのでしょうか?終わりの日の働きの計画を明かし、人類の果てと終着点を誰が示せますか?神の行政を誰が世界中に宣言できますか?神以外誰にもできません。全能神は全人類に向けて話し、神の言葉の持つ力と権威を見せました。全能神の言葉は神の表現であり、声なのです。全能神が発する言葉は、神が第三の天に立ち、全人類に語られているかのようです。全能神は人類の創造主としてみんなに語りかけています。神の義、威厳、傷つかない性質を人類に明らかにしているのです。全能神の言葉を聞けば、たとえ真理がまだよく理解できず、経験のない神の羊であっても、全能神の言葉には力と権威があり、神の声に間違いないこと、そして神の霊が直に発していることがはっきりと分かるのです。神に選ばれた人は言葉を聞くだけで神の声だと分かるのに、なぜ牧師や長老は全能神を非難するのでしょうか?反キリストは神の受肉を認めず、神が真理を示すことを認めません。それが真理であることを認識できて、神の言葉の持つ力と権威を感じるのにです。神が肉体から言葉を発することも、語られたことが全て真理であるということも認めようとしません。なぜか分かりますか?終わりの日に、受肉した全能神が全人類に語られる言葉をいったいどれくらいの人が気づくでしょうか?全能神が語っても、宗教界の多くの人が神の声だと分かっていません。人間が語った言葉のように扱い、自分の観念だけで全能神を決め付け非難しています。神を畏れる心があるのでしょうか?彼らは真理を嫌い神を非難した、昔のパリサイ人と同じでは?神の言葉には権威と力があるのに、それが神の声だと分からないのです。それで神の羊と言えますか?聞いても心は空っぽ、目にしても分からず、結局理解できません。それで天に招かれますか?終わりの日に受肉した神は真理を示し、宗教界の人々の本性を暴きます。真の信者と偽者、真理を愛する者と嫌う者、賢いおとめと愚かなおとめのように全員が振り分けられ、それぞれ分類されるのです。全能神が言っています。「悪者はすべて神の口から語られる言葉によって罰せられ、義人はすべて神の口から語られる言葉によって祝福される……」(『言葉は肉において現れる』の「千年神の国は訪れた」より) 神の声を聞く者は主の再臨を迎え、玉座に引き上げられて、子羊の婚宴に招かれることになります。それは賢いおとめで、恵まれた人類です。

 神の声は心と霊で聞く必要があり、心が同じなら分かり合えます。神の言葉は真理であり、力と権威があるので、心と霊があれば分かります。全能神の言葉を少し読んだだけで、多くの人が神の声であると確信できます。神は受肉のたびにその段階の働きをします。神の指示で特定の言葉を少し伝えるだけの預言者とは全く違います。受肉した神が働きをする時、多くの言葉を語り、多くの真理を伝え、奥義をあきらかにして預言します。終わるまでに何十年も必要な場合があります。例えば、贖いの働きでは、主はまず「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイによる福音書 4:17)と言い、どのように悔い改め、赦し、苦しみや苦難に耐えるかを諭しました。そして恵みの時代に従うべき道を開き、神の愛と慈悲の性質を見せました。また天国の奥義と天国に入る条件も明らかにしたのです。主が磔にされ復活し、昇天した時、神の贖いの働きが終わりました。主の言葉は真理で、贖いの働きで神が人類に与えた物です。終わりの日に全能神が現れ、人類を清め救う真理を示しました。神の家から始まる裁きの働きで、義を主とする神の性質を人類に明らかにしました。六千年にわたる経営(救いの)計画にまつわる奥義を明かし、神の国の時代を開き恵みの時代を終わらせました。全能神の言葉はその命の本質が湧き出たもので、神の性質を表します。今は人類を清め救うために、神が終わりの日に働いている段階なのです。全能神の言葉を読んで、それが真理を語り神の声であるか確認しましょう。

 全能神は言われます。「神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

 「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より)

 「終わりの日はすでに来ている。あらゆるものは種類によって区分され、性質に従って種類分けされる。この時に神は人の最後と終着点を明かにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、人の不従順と不義を明かす方法はないであろう。刑罰と裁きを通してのみ、あらゆるものの終局を明かすことができる。人は罰せられ裁かれて初めて本当の姿を示す。悪は悪に、善は善に、人は種類によって区分される。刑罰と裁きを通して、すべてのものの最後が明かされ、悪人は罰せられ、善人は褒美を得るであろう。そして、すべての人たちは神の支配の下に従属することになるであろう。すべての働きは義なる刑罰と裁きを通して達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順はあまりにも深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きであり、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質のみが人を完全に変えて全き者とすることができる。この性質のみが悪を暴露し、よってすべての不義なる人々を厳しく罰することができる。……終わりの日には、義なる裁きのみが人を分類し、新しい領域に連れて行くことができる。この様に、時代全体に神の裁きと刑罰の義なる性質を通して終わりがもたらされるのである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より)

 「これで裁きとは何か、真理とは何かを理解できたか。もし理解できたなら、あなたが裁きに従うよう熱心に勧める。さもなければ、神に賞賛されることも、神にその国に連れて行ってもらうことも決してないのだ。裁きは受け入れるが清められることのない者、すなわち裁きの働きの最中に逃げ出すような者は、永遠に神に嫌われ拒絶される。彼らの罪は、パリサイ人の罪よりも、ずっと多く、ずっと重い。なぜなら、彼らは神を裏切り、神に背いたからだ。仕えさえするに値しないそんな人間は、さらに過酷で終わることのない懲罰を受ける。言葉で忠誠を誓いながら裏切るような者を、神は見逃さない。そのような者は報いとして、霊、魂、そして体に懲罰を受けることになる。これは、神の義なる性質を明示しているのではないだろうか。これこそ、まさに神の裁きと人の明示の目的ではないのか。神は、裁きの時にあらゆる邪悪な行いをした者全てを、邪悪な霊が生きる場所に置き、彼らの肉体を霊の意志により破壊されるようにする。彼らの肉体は、死臭を放つ。それが彼らにふさわしい報いなのだ。神は、不忠実な偽の信者、偽の使徒、偽の働き人の罪をひとつ残らず彼らの記録に書き留め、その時が来れば、霊が彼らの肉体をそっくり霊により思うままに汚されるよう、神は彼らを汚れた霊の中に放り込む。その結果、彼らは決して生まれ変わることはなく、二度と光を見ることはない。一度は神に仕えたが、最後まで忠実であり続けられなかった偽善者は、神により悪人として数えられるので、彼らは悪人とぐるになり、烏合の衆となる。最終的に、神は彼らを滅ぼす。神は、キリストに一度も忠実でなかった者や神のために何の努力もしたことのない者を排除し、顧みることはなく、時代が変わる時に彼らをひとり残らず滅ぼす。彼らは、もはや地上に存在せず、神の国へ入れてもらうことなど無論ない。神に対して誠実であったことはないが、強引に神により取り扱いを受けた者は、神の民のために奉仕する者として数えられる。そうした者たちのごく一部だけが生き延び、大多数は奉仕をする資格さえない者たちと共に消えゆくだろう。最後に神は、神と同じ心を持つ全ての者、神の民と子ら、そして祭司として定められた者たちを、自分の国に迎え入れる。これが、神の働きを通して生まれる神による結晶だ。神が定めた種別のどれにも属せない者については、異邦人として数えられる。彼らの結末がどうなるか、もちろん想像できるだろう。わたしは既に、あなたがたに言うべきことを全て言った。あなたがたがどの道を選ぶのか、それはあなたがたの決断次第だ。あなたがたは次のことを理解しなければならない。神の働きは、神についていけない者のために待ってくれることはなく、神の義なる性質は、誰にも哀れみをかけない。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より)

 終わりの日、全能神は真理を示し裁きの働きをされ、その御言葉は人類の堕落を明らかにします。神に抗い悪に傾く、人間の堕落した心が暴かれます。聖であり義なる神の性質を人類に示されました。そのお姿と働きを見た人々は次々と救いを受け入れています。全能神はすべての信者に御言葉による裁きと刑罰を与え真理を示します。信仰心があるようで実は逆らっている人々の本質を明らかにします。全能神の御言葉を聞きましょう。全能神は言われます。「人間は天のわたしを見上げ、天にいるわたしについて、とりわけの関心を向けるが、肉におけるわたしを心にかける者は誰一人いない。人間の間で生きるわたしがあまりに平凡だからである。聖書の言葉に合致するものだけを求める人々、漠然とした神に合致することだけを求める人々は、わたしには哀れに見える。それは、その人たちが崇めているのは死んだ言葉と、計り知れない宝を与えられる神だからである。その人々が崇めているのは、人間の思いのままになる神なのだが、それは存在しない。では、そうした人々はわたしから何を得られるのか。人間はただ言いようもなく低劣である。わたしに敵対する人々、わたしに限りない要求をする人々、真理を愛さない人々、わたしに反抗心をもつ人々──どうしてそんな人々がわたしと融和できるのか。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストと融和する道を探せ」より)

 「あなたがたの心は悪、裏切り、欺きで満ちている。そのような状態であるならば、あなたがたの愛には幾つの不純物があるのか。あなたがたは、自分はわたしのためにすでに十分あきらめてきたと思っている。自分のわたしへの愛はすでに十分だと考えている。しかし、それならば、あなたがたの言葉と行動にはなぜいつも反抗と欺きがあるのか。あなたがたはわたしに従うものの、わたしの言葉を認めない。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、わたしを脇へ置く。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、わたしに疑いをもっている。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、わたしの存在を受け入れられない。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、わたしが誰であるかに相応しくわたしを扱わず、あらゆる機会にわたしにとって物事を困難にする。これを愛とみなすのか。わたしに従うものの、あらゆる事柄においてわたしをからかい欺こうとする。これを愛とみなすのか。わたしに仕えるものの、わたしを恐れない。これを愛とみなすのか。あなたがたはあらゆる面で、あらゆる事柄においてわたしに反対する。これをすべて愛とみなすのか。あなたがたはかなりの犠牲を捧げてきたのは確かである。しかし、わたしがあなたがたに要求することを実践したことが全くない。これを愛とみなすことができるだろうか。注意深く検討すると、あなたがたの中にはわたしへの愛のほんの少しのほのめかしもないことがわかる。これほど長年の働きとあれだけ多くの言葉を与えてきた後、あなたがたは実際にどれほどのことを得てきたのか。このことは注意深く振り返り検討する価値がないだろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」より)

 「あなた方の神への信仰の目的は、神を利用して自分の目的を果たすことである。それも神の性質に敵対していることの現れではないのか。あなた方は天の神の存在を信じるが、地上の神の存在を否定している。しかし、わたしはそのような見方を認めない。わたしは足を地に着けて地上の神に仕えるものだけを賞賛し、地上のキリストを認識しないものは絶対に認めないのである。そのような人たちが天にいる神にどれほど忠実であっても、結局、邪悪な者を罰するわたしの手を逃れることはないのである。そのような人は邪悪な者である。彼らは神に逆らい、喜んでキリストに服従したことのない邪悪な者である。もちろん、これにはキリストを知らないもの、およびキリストを認めないものも含まれる。」(『言葉は肉において現れる』の「どのように地上の神を知るか」より)

 「堕落した人々は、みなサタンの罠に囚われている。彼らは肉に生き、利己的な欲求をもって生きていて、彼らの中には、わたしと融和する者は、ただの一人もいない。わたしと融和すると言う者もいるが、みな漠然とした偶像を拝んでいる。彼らはわたしの名を聖いものとしているが、わたしに反する道を歩んでいる。そして、彼らの言葉は傲慢とうぬぼれに満ちている。心の底では、みなわたしに敵対しており、わたしと融和していないからである。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストと融和する道を探せ」より)

 私たちは全能神の裁きによって、自己中心や偽り、思いあがりに気が付くのです。悪魔的な性質です。たとえ神を思い、苦難に耐えても、それが本当の服従や愛だと言うことはできません。苦難に直面すると、私たちは神に疑いや否定の気持ちを抱きます。これは私たちがサタンの性質を持っていることの現れなのです。私たちのこうした悪の性質が清められなければ、神への真の服従や愛はありません。今まで私たちは思い違いをしていました。何かを犠牲にして熱心に働けば良い人間になれると、神を愛する人間になれると。でも全能神の裁きで明らかになるのです。表向きは熱心に尽くしているようでも、実際には神に嘘をつき欺いています。自分の利益や顕示欲を優先しているのです。努力したり犠牲を払ったりするのは祝福を受け、天国に招かれたいからで、それでは神との取引です。神への服従や愛を語ることはできません。なのに、自分が誰よりも神に忠実だと主張する者がいます。全く無知で、神を知らない者です。そのお裁きから分かるように、神はすべてお見通しです。神の素晴らしい聖さ、義、その背くことのできない性質を感じる時、畏れに震えます。私たちは内なるサタンに気付き、神の前で生きる価値もないと感じます。打ちひしがれ後悔して嘆き叫び、自分の存在を呪い、ののしるのです。私達は悪に支配され日々を生き、人間らしさを見失っていることに気づくのです。多くの裁きや刑罰、試練や精錬、取り扱いやかりこみを経験し、ようやく真理が見え始めます。自分に潜む堕落をしっかり見つめ、それと同時に、神に対する真の認識を得ます。心から崇拝し服従するのです。これが正しい信仰の姿で神の裁きと刑罰を経験した結果です。神様の裁きと刑罰がなければ、私たちはサタンに堕落させられたことに気づかなかったでしょう。無意識のうちに、なぜ罪を犯し神に逆らうのかわからなかったでしょう。それだけでなく、悪から逃れ真に服従する方法も知ることはなかったでしょう。神の言葉による裁きがなければ、神の義、威厳、背くことのできない性質を知ることはない。神を畏れる心を養うことも、悪をさけるものにもなれない。これは真実です。神が受肉されなかったら、誰が終わりの日の裁きをできるでしょうか?誰が神の義で聖なる傷つかない性質を示せるでしょうか?神様が受肉されなかったら、一体誰が罪深い私たちを裁き、心を清め救うのでしょう。その力や権威を持ち合わせる方は他にいるでしょうか。全能神の御言葉は神としての地位を明らかにするもので、全能神こそが創造主で、唯一の神だと示します。私たちは全能神の御言葉に神の声を聞くことができました。なぜ今、多くの人が全てを賭け全能神の言葉を広めているのでしょう。なぜこんなに多くの人が中国政府の迫害や弾圧による命の危険を冒してまで、全能神の働きを伝えようとしているのでしょう?なぜ多くの人が宗教界の人々から見放され、非難や辱めに遭いながらも、一軒一軒の家の門を叩き、活動するのでしょう。それは彼らが神の声を聴き、その出現を確信し、人々に広める決意をしたからです。「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」(マタイによる福音書 25:6)と。これこそ、主が扉を叩いておられるのでは?主は皆さんの扉を叩いてます。皆さんは主を迎え入れますか。主が人を遣わして扉を叩いた時、真の道を学び、主の声を聞くべきですよね?

『戸をたたく』の映画台本から


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?