
Photo by
tomekantyou1
「私」が「考えて」いる?
私が考えている。
私が感じている。
私が行動している。
私がやっている。
私が聞いている。
私が見ている。
この「私が」という感じ。
おそらく、こういう風に思っていると思う。
考えているのが「私」である。
感じているのが「私」である。
行動しているのが「私」である。
聞いているのが「私」である。
やっているのが「私」である。
この違い、わかるだろうか?
先立つものがどちらか?
というような視点のシフトといえると思うのだが、この視点のシフトができると、非二元で言われているところの「私はいない」ということの理解につながるきっかけの一つのように思われる。
考えること、なくして私はいるか?
感じること、なくして私はいるか?
行動すること、なくして私はいるか?
ということである。
先立つものとしての「私」がいて、考えることがそこで起こっていると思ってしまう。
、、、私もずっとそう思っていた。
(文章の成り立ち、コミュニケーションの手段において、「〜がやっている。」とせざる負えないので、そのような思考形態になるのは仕方がないのだが。)
検証してみてほしい。
(寝ている時に「私」はいるのか?感覚がない時に「私」はいるのか?を思い浮かべてみると、一つのきっかけになるかもしれない。)
少なくとも同時発生ではなかろうか?????
もしくは後から、「私」が登場してはいまいか?
もしかしたら、この検証で、あれ?「私」って??
なる可能性もなきにしもあらずと思う。
この「私」という主体感覚、かなり強固でして、ここを見切るのに
だいぶかかりました。
「私」が先立ってあって、感じているのか?
それとも
感じているという事態があって、それを総括して「私」と呼んでいるのでは?
なんか、難しくなっちゃったかな、、、、。
ややこしくしてるかも、、、、。
ごめんちゃい。