国立競技場をめぐる妄想
2013年9月に誘致が決定して以来、エンブレム盗作疑惑、メインスタジアム設計案の白紙撤回や様々な人事問題など、直前までドタバタ続きの東京オリンピック2020も、1年遅れで何とか終了となりました。
開始前日まで猛烈な批判と中止活動が続く中で、選手の活躍も目覚ましく、テレビや配信動画を通じて国民の関心も前評判以上に高く、終わってみればそれなりに心に残る大会になったように感じます。
開会前にCMを流さないと宣言していたTOYOTAが、競技終盤にはしれっとNEWランドクルーザーのCMを出していたのを見た際には、少なくとも日本国内においては、商業コンテンツとしてのオリンピックは成功を収めたのだなと思いました。
国立競技場にまつわる陰謀
東京2020大会において、開催前から個人的に最も関心が高いのが国立競技場の設計をめぐる不自然な経緯です。
近未来的な流れるデザインが印象的なザハ・ハディド女史の設計は、確かに神宮外苑という土地の風致にふさわしいかという議論はあるにせよ、正式な国際コンペを通じて選ばれた案です。
それが総工費という大きな課題を前に、設計者本人に知らされる間もなくコンペ案の突然の白紙撤回という、ビジネスの常識からみてもどうかと思うような手続き上の強引さと不自然さが残りました。
設計コンペの総責任者である安藤忠雄氏が開いた記者会見では、闘う建築家として行政にも一歩も引かない氏の立ち居振る舞いとは異なり、歯切れの悪い説得力のない説明に終始するばかりでした。この一件で、建築界の時代の寵児であった同氏の名声も、地に落ちてしまったと感じたものです。
当時その会見を見た際には、本当に残念な気持ちになりました。
競技場設計白紙撤回、本当の理由
さて、ここからは個人的な推察による、国立競技場設計にまつわる経緯について触れたいと思います。
ここに記載する内容は完全なる妄想ですので、それを前提に読み進めていただきたいと思います。その内容は一般的には受け入れられない種類のものであることを、予めお断りしておきます。
その内容を第三者に伝える場合には、陰謀論者として周囲から冷たい目で見られたり、頭がおかしい人とのレッテルが貼られる危険性もありますので、特に注意が必要です。
蛇からの脱却と決裂
今からお伝えする考えに至ったのは、ザハ女史の設計案について、競技場内部からのパースを見た時からです。
キールアーチと呼ばれる、コスト高と工期の長さの要因と指摘された左右の構造梁に支えられたスタジアム内部のイメージをよく表すこのイラストを見た瞬間、競技場とは異なるある1枚の写真を思い出しました。
この写真は、バチカン市国に建つパウロ6世記念ホール内部のものです。
陰謀論界隈では、このデザインは睨みを利かせた蛇の顔を象徴したものであるとされています。確かにそう言われてみると、両眼だけでなく、口や牙も明確に表現されているように感じます。
しかもステージの中央、蛇の口に当たる正面の壁面には、蛇の頭に見えるキリストの像が設置されているという状況です。
そしてザハ案の国立競技場の内観パースも、この記念ホールと全く同じ構成になっているように感じます。”顔”として意識してみると、確かに目や口だけでなく、鼻までもはっきり表現されているように意識されます。内観だけでなく、外観も、蛇の頭をモチーフとしているようにさえ感じます。
これらの事が何を意味するのか、詳細は敢えて割愛しいますが、オリンピックスタジアムの設計段階において、蛇側と反蛇側の水面下での攻防の結果、ギリギリのところで反蛇側が勝利した結果の突然の設計撤回ではなかったかと感じています。
スネークヘッドを撤回するための設計案の白紙撤回ですから、誰もが納得する理由を明示することなどできなかったわけです。そう考えると安藤氏も、もしかすると利用されただけの被害者の一人であったのかもしれません。
もちろん全てはただの妄想です。
ザハ女史の早すぎる死
そして当時世間ではあまり話題にならなかったものの、テレビ報道で知って驚いたのが、設計者であるザハ女史の訃報です。
2016年の3月31日、享年65歳、気管支炎での入院中に生じた心臓発作による、芸術家としては早すぎる死です。設計案の白紙撤回が2015年の9月辺りですから、事件発生からわずか半年後に帰らぬ人となった訳です。
初めてそのニュースを聞いた際に、本当に自然発生的な病死であればまだ報われるかもしれないと思ったものです。
Qの登場
そして紆余曲折の末、国産材を活用する隈研吾の案が採用されました。
神宮の杜と調和する
日本らしい「杜のスタジアム」
日本という環境、そして神宮外苑という土地の持つコンテクストを意識した場合、ザハ案よりも杜のスタジアムというコンセプトの方が馴染むのは確かだと思います。それでも最終案のデザインを含めた全てが、何故かあまりピンとこなかったのです。
ところが実際に競技場が完成し、空からの画像が出回るようになると、次第に新しい設計案が採用された意味が理解できるようになりました。
はじめて競技場を上から見た際には、一部だけが不規則な灰色になっている屋根に違和感を感じましたが、直ぐにトップライトであろうことは理解できました。日影曲線などの解析の結果、競技場内への日照条件が最適になるように屋根の開口位置を設計したのでしょう。
そしてどこからか、この屋根は”Q”を表しているという言葉を耳にした時、全てが腑に落ちる気がしました。
蛇が去ってQが残った、闘争の結果というのはこのことではないかと。
それが何を意味するのかはここでは深く取り上げませんが、日照計画の結果とはいえ、あまりにも不整形で不自然な屋根開口部のデザインが、Qという形状への解釈を与えることで、それ以外にはない見事なデザイン表現となることに、ある種の感動すら覚えました。
もしここに書かれた全てが計画裏に実現されたものだとすれば、それは何らかの希望へのサインを暗示しているものかもしれません。
無観客開催の意味
そうなると、競技場が無観客でも満員に見えるという設計趣旨もまた、ザハ案が頓挫し新たな設計を考える段階で、何者かが設計者に意図的に指示を与えたものだと感じられます。
そのように考えると、全てはこのとぼけた誘致結果発表から始まっている、いやAKIRAが発表された1980年代には、既に全てが予定されていたのかもしれません。あるいはもっと前、1964年の前回東京オリンピックからの計画であるのか、一市民にとっては到底はかり知ることのできない話です。
そして、オリンピック開催後に突然出回った、開会式や閉会式のオリジナル案の存在もまた、週刊誌や報道で取り上げられる表面的な理由とは異なる意味があったのかも知れません。
もしかすると、現在彼の地であり得ないような活躍を見せる大谷翔平選手の背番号が17番であるのも、国立競技場の成立過程が象徴する大きな枠組みの内にある、世界に向けた未来へのメッセージなのかもしれません。
妄想はどこまでも尽きることなく広がっていきます。
ではまた次回。