【京都】愛宕山之図
京都北西に位置する 愛宕山 を望む一枚です。
一の鳥居から清滝川を渡って、試の坂を上り、京口惣門へといたる表参道が描かれています。愛宕山の山頂には、白雲寺があります。神仏習合の寺院で、本殿には愛宕権現の本地仏である勝軍地蔵、奥の院には愛宕太郎坊 天狗が祀られていました。
明治政府の神仏分離政策により白雲寺は廃絶され、愛宕神社として今に至ります。現在は、伊弉冉尊、埴山姫神、天熊人命、稚産霊神、豊受姫命の五柱が祀られています。
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江戸時代後期に書かれた『愛宕山略図』によると …
嵯峨の一の鳥居から本社まで五十町。約5.5kmの険路です。清滝川に架かる 渡猿橋を渡り、試 の坂を登ります。山の右手に樒が原、左手奥に南星峯が見えます。途中、十七町目に火の神 火産霊命 を祀る 火燧権現 があります。
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それでは、愛宕山の山頂目指して登りましょう。
まずは、一の鳥居です。
ここは、愛宕街道の嵯峨鳥居本です。愛宕権現の一の鳥居があるこの場所は門前町として賑わいました。
大きな赤い提灯をつるした茶店が並び、道を行く人、縁台に腰かける参詣客、お茶を運ぶ女中さんが描かれています。
女中さんがお盆を差し出す様子や、客が茶を取ろうと身を乗り出そうとしている感じなど、細部までとても丁寧に描かれています。
看板の文字は読めませんが、今も続く「鮎の宿つたや」「仙翁庵(つたや別館)」と思われます。(「鮎の宿つたや」は、現在は鳥居の内側に建っています)
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鳥居をくぐって 清滝川 の谷あい集落へと向かいます。
江戸時代、清滝は宿場町として大いに発展しました。
愛宕権現が 甲冑を身に着けた軍神(将軍地蔵菩薩)であることから、武士の間で広く信仰され、参詣道にあたる清滝には参拝する大名に供奉する人たちが居を構えました。
貞信の絵からも、立派な構えの宿場町であったことが伺えます。
余談になりますが、天正十年(1582年)本能寺の変の直前に、明智光秀が戦勝祈願と称して参籠したのが愛宕権現です。開いた歌会(愛宕百韻)の冒頭で「時は今 天が下知る 五月哉」と詠んでいます。
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渡猿橋 を渡り、試の坂 を上って、京口惣門(現在の黒門)へと向かいます。
試の坂という名前は、愛宕権現に至る険しい坂道を登ることができるか、この坂道で試すことからついたそうです。
山の中央に見える建物が、愛宕山 白雲寺の境内です。
京口惣門をくぐって、境内へと入りましょう。
惣門をくぐって階段を上がると、平坦な場所に出ます。ここには六つの宿坊があり、右手に教学院・福寿院・長床坊、左手に宝蔵院・威徳院・大善院が並びます。明智光秀が歌会を開いたのは威徳院です。
再び階段を上り、鐘楼堂を過ぎて、鳥居をくぐると、本殿へとつながる廻廊に入ります。
神宝蔵、集会所、護摩堂、舞殿、拝殿、弁財天、御供所、熊野権現、本社、校倉、飯縄権現、八天狗、子守勝手社、春日社、山王十二天社、奥の院といった建物があり、神仏が習合していた時代をうかがい知ることができます。
時は今 天が下知る 五月哉 明智光秀
天正十年(1582年)五月二十四日
愛宕百韻
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参考:国立国会図書館デジタルコレクション『日本府県全図』『日本地理全誌 巻之4』『旧習一新 下之巻(天狗)』『聖蹟圖志』愛宕神社Webサイト「御由緒」鮎の宿つたやWebサイト「つたやの歴史」
筆者注 新しく解読できた文字や誤字・誤読に気づいたときは適宜更新します。詳しくは「自己紹介/免責事項」をお読みください。📖