【京都】嶋原出口光景
京都の島原遊郭の出入口の光景を描いたものです。
ここは朱雀野丹波口にある東の出入口。大勢の人でごったがえす賑やかな様子は、島原遊郭の栄耀と繁昌ぶりを現代の私たちに伝えてくれる、記録写真のような一枚です。
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門を行き来するのは遊客だけでなく、出入りの業者、仕出しを運ぶ人、一般人と見える女性や、小さな子の手をひく老女の姿も見えます。厳しく管理されているイメージの遊郭ですが、江戸末期の島原は思いのほか自由な出入りが許されていたような印象を受けます。
門の奥には、大きな傘をかざして歩く太夫の姿が見えます。
立派な構えの楼閣が並び、門の外からも二階で優雅に立ち振る舞う遊女の姿を見ることができるのは、宣伝効果を狙ってのことかもしれませんね。
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では、中に入ってみましょう。
島原遊郭は、六つの町で構成されています。
東西に、道すじが一本、南北に、三つの筋が通ります。
北東から順に中の町、中堂寺町、下の町、南東から順に上の町、太夫町、揚屋町に区画されていて、島原の別名を「三筋町」といいます。
番所に掛けられた提灯の「六町組」は、この六つの町を指しています。
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宝暦七年(1757年)に出版された島原案内記から挿絵を見ていきましょう。貞信が描いた時代より百年ほど昔になります。
東口を入ると、小さな橋が架かっています。手前は「しあん橋」、その先は「ゑもん橋」とあります。これは、江戸の吉原を模した余興だろうと思います。
「思案橋」は元吉原の近くにあり、吉原に行こうかやめようか思案するところから思案橋、「衣文坂」は新吉原に行く途中にあって、そこで遊客が衣文をつくろうことから衣文坂と呼ばれました。
東口の門を入ってすぐに「八もんじ屋」と「かぎや」が並んでいます。
若い遊客のそばに、今にもじゃれつきそうな犬がいるのは、芭蕉の高弟 其角が詠んだ俳句をモチーフにしているのかもしれません。
島原の出口にて
きぬぎぬに 犬を払ふや 袖の雪
其角
きぬぎぬは「後朝」と書きます。逢瀬の男女が明け方に別れることをいいます。
中の町では、局女郎や格子女郎と呼ばれる下位の遊女が夜見世に出ています。
島原遊郭のいちばん奥の揚屋町では、太夫が歩いています。太夫の後ろから男衆が大きな傘をさしかけ、 引舟、 禿、遣り手が付き従います。
※ 太夫 最上位の遊女。
引舟 上方の遊郭で、太夫につき添って客席をとりもつ遊女。
禿 太夫に仕えて見習いをする少女。
遣り手 客と遊女の取り持ちなどを行う年配の女性。
こちらは天神です。天神は太夫の次に位置する上位の遊女で、新造が付き従います。
※ 大尽 豪商などの富豪な遊客のこと。
天神 太夫の次に位置する遊女。
新造 禿の年季を終えて、姉女郎につく見習いの女性。
話は少しそれますが、島原の太夫といえば 吉野太夫 が有名です。複数の遊女が島原の吉野太夫を名乗りましたが、最も知られているのは豪商 灰屋紹益の妻になった林與次兵衛家の二代目吉野太夫です。
本名は徳子。源氏名を浮舟といいましたが、島原の花を見て「こゝにさへさぞな吉野は花ざかり」と吟じたことから吉野と呼ばれるようになったそうです。
遊女から身請けされた女性ながら、もとは武家の出身で、容姿美しく諸道に通じ、紹益の妻となった後も閑雅な暮らしぶりと清雅貞淑な人柄は、賞賛とともに語り継がれました。
明治中期の『婦女の教育 第2巻(遊女 吉野太夫の事)』に簡単な読み物があるので、興味があれば開いてみてください。
揚屋町の先は、西の出口です。
天神社、絵馬舎、住吉社が祀られていて、神輿蔵も見えます。
豆腐茶屋の店先では、豆腐田楽を焼いています。お味噌のいい匂いが漂ってきそうですね。
出口の垣根を「さらば垣」と呼ぶのは、遊女が客を送って別れをするからだそうです。
出口を出ると千本通りです。
鍬を担いだ百姓の姿があり、華やかな東口とは対照的に、あたりは一面の田んぼです。遊郭の煌びやかな世界から現実の世界に一気に引き戻されます。
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最後に添えると、島原は幕末の嘉永四年(1851年)に起きた火災でそのほとんどを焼失します。仮営業で祇園新地に移ってからは、島原が復興した後もかつての繁栄が戻ることはなく、明治の新しい時代のなかで次第に寂れていくことになります。
貞信が描いた島原の賑わいは、最後の一瞬のきらめきであったようにも思えます。
こゝにさへ さぞな吉野は 花ざかり
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参考:国立国会図書館デジタルコレクション『三都花街めぐり』『燕石十種 第3』『人文抄』『山州名跡誌』『京都名所順覧記 : 改正各区色分町名』『京都名所案内図会 乾』『婦女の教育 第2巻』『したれ柳』『歌俳百家伝 : 貴賤画像』『古今列女伝』『女流著作解題』『古今名婦伝』
筆者注 新しく解読できた文字や誤字・誤読に気づいたときは適宜更新します。詳しくは「自己紹介/免責事項」をお読みください。📖