【京都】東福寺通天橋
東福寺の 通天橋 を 洗玉澗 の渓谷 から眺めた景色です。
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紅葉の名所として知られる京都の中でも、屈指の眺望が殊に美しい東福寺。境内には、東西に 洗玉澗 と呼ばれる渓谷が流れ、南北に本堂と開山堂をつなぐ 通天橋 が架かります。
鎌倉時代前期、公卿 九條道家 が建立した寺院で、嘉禎二年 (1236年)から建長七年(1255年)まで19年の歳月をかけて造営されました。開山は寛元元年(1243年)、山号は慧日山です。
「東福寺」の名前は、奈良の「東大寺」と奈良の「興福寺」からそれぞれ一字をとってつけられています。東大寺は盧舎那仏像を擁し、興福寺は 南都北嶺(南の興福寺、北の比叡山延暦寺) の一角として、ともに大変な隆盛を誇っていたため、それらになぞらえようと念願したそうです。
通天橋が架けられたのは開山から140年近くを経た天授六年(1380年)、足利義満の帰依を受けた禅僧・春屋妙葩 が架けたとされています。
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歌川広重が、同じ位置から 洗玉澗 を描いています。
清らかで勢いある洗玉澗の流れが印象的です。
「澗」は、訓読みで「たに」または「たにみず」と読みます。「洗玉澗」は、谷水が岩にあたって玉なす様子を表しています。
草双紙『 偐 紫 田舎源氏』に次のような 行 があります。
一方で、「洗玉澗」という名前は、南宗の画家・玉澗 に由来するのではないかと思います。
玉澗は、室町時代から江戸時代にかけて日本の水墨画に大きな影響を与えた人物で、今も『瀟湘八景 遠浦帰帆図』や『廬山図』といった作品が残ります。
天授六年(1380年)に通天橋をかけたとされる春屋妙葩は、足利義満の帰依をうけて、隠棲先から天授五年/康暦元年(1379年)に京に戻り、その後、義満が発願した相国寺の事実上の開山(初代住職)となりました。また、室町時代を代表する水墨画家の雪舟は、玉澗を模して『山水図 倣玉澗』という作品を残していますが、彼が10代から30代半ばにかけて禅宗と絵を学んだのが相国寺でした。
室町時代以降、高い人気を誇った「玉澗」に名前を重ねて「洗玉澗」という名前をつけたとしたら、それはそれでとても自然な気がします。
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洗玉澗には縁台が出ていて、軽食を食べたりお茶を飲んだりして、ひと休みすることができました。
家族連れの一行は、祖父母・両親・子供の六人家族でしょうか。
煙管をくゆらせながらくつろぐ父親、話に興じる母親、祖母の前には赤い火鉢のようなものに黒い鍋が置かれています。祖父は脇に瓢を置いて水の流れに目をやっています。
木の根元には、菅笠を足もとに置いて、煙管をくわえる旅の男性の姿があります。
お侍さんに話しかけられている様子の男性客に、お茶を運んでくる女中さん。お侍さんはどことなく新選組に似ているような気もします。
時代は幕末、明治維新の動乱へと移行するなかの静かで穏やかな東福寺通天橋の秋の景色です。
げに通天の橋から見れば 下紅葉色ざかり
むすめ盛りの いそ/\と
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参考:国立国会図書館デジタルコレクション『国史大図鑑 第3巻』『懐中活用平安名所案内』『日本名所圖繪 : 内國旅行 五幾内之部 増補再版』『新選歌曲集 第1巻(せんたく娘)』、徳川美術館『瀟湘八景 遠浦帰帆図(玉澗筆・同賛)』、岡山県立美術館『廬山図(玉澗)』『山水図 倣玉澗(雪舟等楊)』、東福寺Webサイト「縁起」「庭園概要」
筆者注 新しく解読できた文字や誤字・誤読に気づいたときは適宜更新します。詳しくは「自己紹介/免責事項」をお読みください。📖