プロローグ:スピンオフ3
激しい運動ができないのとちょっと体力がないこと以外は普通の小学生児童と同じ学校生活を送れていた千聖だったが、中学生になると学校に行けない日が増えて来た。
今までできていたことが急にできなくなったことが本人も歯痒いのか、闘病生活を送っていたなりの我慢強さを持っていて性格ものんびりマイペースなはずの千聖が、何となくイライラしている雰囲気を満月は感じていた。
その日は体力測定で、満月は体育館での測定に参加していた。だが運動場がざわついた気がしたので、入り口からちょっと顔を出して外を見てみた。
ざわついているのは50メートル走のエリアだ。スタートを管理する生徒と千聖が話している。
そういえば、千聖もできるものだけ測定してたよなと思うのだが、50メートル走は絶対にない。だから千聖がスタート地点にいるのが見えても、そこにいるだけだよなと最後の一瞬まで走り出すとは思っていなかった。
だが千聖は満月の目の前でスタートラインを蹴った。あり得ないと思っていた出発を見たと同時に、満月の体は勝手に体育館から飛び出していた。
体育館と50メートル走の場所は近くはない。ゴールする直前に何とか辿り着き、抱き締めるように止めたのだが、腕の中の千聖は唇が真っ青で既に意識がなかった。
満月は頭が真っ白になった。
手が震え、息ができない。
ヤバい。どうしよう。千聖が死んでしまう。
うまく声が出ないまま、うわ言のように繰り返した。
「…救急車、早く救急車を、救急車を呼ばなきゃ…」
病室で目覚めた千聖を、満月は思い切り叱りつけた。
「お前っ!何走ってんだよ!本当に死ぬとこだったんだぞ!」
千聖は満月から顔を背け、憮然と言う。
「体調も良かったし、走れるかと思ったんだ」
「そんな訳ないのはお前が一番良く知ってんだろ!」
満月の言葉に、千聖はこっちをキッと睨みつけた。
「人生で一回くらい思い切り走ってみたいなんて気持ち、満月にはわからないだろ!」
そう怒鳴るだけでも息が切れるらしく、千聖は肩で息をすると少し咳き込む。
それを見て次に言おうとしていたことを引っ込めかけた満月だったが、
「僕の体なんだ。僕がどう使おうと自由じゃないか」
千聖が言った言葉にカチンと来て、ベッド脇の椅子を蹴り飛ばしながら怒鳴ってしまった。
「ふざけんな!その結果死ぬなんてことは俺が許さねーぞ!!」
これ以上ここにいても、ひどい言葉しか出て来そうにない。
満月はそのまま病室を出て、千聖が入院している間、初めて一回も見舞いに行かなかった。
退院する日を、それでも満月はちゃんと把握していた。
学校から帰り、そろそろ退院して家で休んでるだろうなと時計を見ていると、裏山の道を通ることでしか来れない神社裏の門がノックされる。
満月と千聖しか使わない道なのだから、来たのは千聖だともちろんわかっていた。だから門の後ろまでは行ったのだが、すぐには門を開ける気になれない。
「満月、そこにいるんでしょ?」
門越しに千聖の声がする。
「心配かけてごめん。僕は病院の先生にも母さんにも満月にもずっと助けてもらって迷惑をかけてる。それなのに、自分の体だから自由に使っていいなんて言うのはわがままだった」
何があんなに腹立たしかったのか、満月自身も自分の気持ちを表す言葉を知らなかった。
でも、そういうことじゃないのだ。満月は迷惑をかけられてると思ったことはないし、皆が自分を助けてるから言っちゃいけないとか言うことでもないのだ。
「違うよ。千聖がわがままだと思って怒ったんじゃない」
時間をかけ、言いたいことの片鱗をなんとか探り当てた満月は続けた。
「千聖のことは千聖だけのことじゃない」
その言葉を言った後に門越しに聞こえた千聖の息遣いは、ため息のようにも、それにしては少し震えているようでもあった。
しばらくして、千聖の声が聞こえた。
「ねえ、満月。手ちょうだい」
それと共に門がガラリと開いたので満月が右手を差し出すと、千聖はそれを両手で持ち、自分の胸の所に当てる。
「満月と一緒のことがまたできるように、入院中にここに新しい機械を入れたんだ。子どもの時いつも助けてくれたこの手はずっと僕のここにあったのに、そんなことも忘れててごめん」
聞きながら満月は、子どもの頃のことを1つ1つ思い出していた。病院で地縛霊の話をしたこと、一緒に歌を歌ったこと、手術の時のこと。
千聖が苦しい時は自分も苦しかったし、楽しい時は自分も楽しかった。喜びも悲しみも、一緒に同じように体験していたつもりだった。
自分が腹を立てていたのは、それを全部否定されたような気がしたからなんだ。
千聖は胸元の手を柔らかく満月に戻すと、ふふと笑う。
そして
「泣かないで、満月」
と、ずっとしてくれていたように、満月の涙をそっと拭いてくれたのだった。