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しょうもなく、劇的な日々について

なにを否定したくないの?と問われたとき、まあ正直可能な限り全部というのが希望なのだけれど、より具体化してみたよ〜という話。

しょうもなく、劇的な日々について。

客観的に見れば、あるいはいくらかを時間に解決させれば、大体のことはしょうもない。少なくともわたしはそうだ。しかし、間違いなく切実だ。その瞬間は途方もなく体や心や自身や、世界の、ほとんどのエネルギーを費やさなければ向き合えないほどに。

喧嘩ってしょうもない。失恋ってしょうもない。挫折ってしょうもない。絶望ってしょうもない。しかし、間違いなく、どうしようもなく切実だ。

他人の世界を占拠してしまうほどの出来事や感情や衝動を、他人であるわたしやあなたが「しょうもない」と名付けてしまう傲慢さについて考える。

そういうものに対して「普通」と名付けて許容してあげるみたいな態度の人間が一定数いて、非常に不誠実に感じる。普通でないと認めないのか?認められるには普通とされなければいけないのか?普通でないものを、普通でないまま存在させることは難しいが、そこを諦めて「普通」と名付け存在を認めることが、果たして本当に多様性を理解することへの態度なのか?

しょうもないわたしは「普通」ではない。しかし切実であり、また、劇的である。

「しょうもない喧嘩してるんだね」

それらを劇的と捉える感性は、「普通」ではないかもしれない。一方で、その感性を否定されるいわれはないし、また否定する権利など誰も持ち得ないのではないか。

それぞれの人間のしょうもなさを、けれど確かに劇的な日々を、わたしは否定したくない。

しょうもない喧嘩してて悪いのか。しょうもなくない、崇高で高尚な、価値のある喧嘩をぜひとも教えてくれよ。但し実体験に限るぞ。一体どれだけのものを見せてくれる?あ、「普通」とか「日常」みたいにふわっとぼやっとラッピングして誤魔化すんじゃねえぞ。

わたしの感性は「普通」ではなく、劇的だ。これでも必死に。そしておそらく、あなたもそうでは?なーにが「普通」だ、つまんね。

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野花紅葉
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