生存戦略〜生き延びる編〜
「怒りの下にあるのは、もっと柔らかい感情なのよ」
大学院で心理を学んでいたとき、先生が言っていた言葉。
傷つき、悲しさ、寂しさ。
怒りの前には、それらの柔らかい感情があるのだから、目の前の怒りにばかり囚われていてはだめですよ。
とても心に響いた言葉だった。
*
先日、ひょんなやり取りで読むことになった、マリナさんのこちらの記事。
要約すると、
”死にたいほど辛いあなたには、悪の護身術を使ってほしい。あいつらはバカでクズで下等生物だと、憎しみと侮蔑の鎧で身を守ってほしい。できるだけ鎧の下は、みずみずしく保っていてほしい。そしていつか、鎧を脱いで、自由に羽ばたいて”
という感じ。
ふむふむ。マリナさんっぽい。
そしてお話の締めがコチラ。
”でもこれは悪の護身術だから、精神医学・心理学的に推奨されるべきなのか分からない。精神医学・心理学的にどう位置付けられるのか、これらはのちのち心に悪影響を及ぼさないのか”
のようなことを仰っている。
うーーーーん。
と私は唸った。
なぜかと言うと、私は心理系の大学院へ行き心理系の資格を2つ持っている(アレとアレ)から。でも実際に働いたことのないペーパー心理士だから。
というわけで、ここからは
なお気持ちで読んでください。
資格がどうのこうのというよりは、私はただの心理オタクです(でした)。
というかむしろ、私自身、死にたいと思いつめた過去もあり、「(過酷な環境で育ったのに)よくそんなにまともに育ったね」と言われることが一度や二度ではないので、当事者側としての肌感も強いです。
くれぐれもご了承ください。
*
1.怒りは何のためにあるか
マリナさんの言う「憎しみと侮蔑の鎧」。
その組成成分は、「怒り」だ。
要するにマリナさんは、怒りを心に飼って、相手を憎しみ侮蔑し、鎧を作って生き延びよと言っている。
これが良いか悪いかを論ずる前に、まずは怒りについて、さらっておきたい。
冒頭でも述べた通り、「怒り」は傷つきなどの外側にある感情だ。
そして、なぜ人間が傷ついたら怒りを持つかというと、それは、生物として生来の防御反応による。考えてみれば分かることだが、ストレスによる傷つきをそのままで置いてしまったら、傷んで傷んで仕方がない。ストレスは人を殺せる。放っておいたら、生命の危機すら簡単に招いてしまう。
だから、怒る。傷みそうな生命を守るために、「怒り」はガードとして必須の心の機能なのだ。だから、鎧という言葉はぴったりと言える。
もう少し詳しく、野生動物のストレス状況を例に考える。
例えば、ライオンに今にも食われそうなシマウマ。その状況でシマウマがどういう反応を示すかというと、Fight or flight (闘争・逃走)状態に入る。身体が緊急事態を宣言して、極端に興奮し、戦うかフリーズするかの極端な選択を迫る。
(ここで言う逃走は、フリーズの方を指す。死が差し迫ったとき、その恐怖から自分を逃れさせるために、精神的に逃走し、意識を飛ばすのだ)
人間も同じで、強いストレスに曝されると、身体レベルで Fight or flight (闘争・逃走)状態になる。
だから、「怒り」は、闘争するための燃料とも言える。
(人によっては、逃走の(意識を飛ばす)方がやりやすい人もいると思うけど、それをここで語りだしたら収拾がつかなくなるので、それはここに置いておきます。ぽん)
生来の防御反応とか、大げさな。シマウマのように肉を食いちぎられ絶命の危機にあるわけでもあるまいし、一緒にすんな、と思った方。先ほど私が述べた「ストレスは人を殺せる」という文章を100回ノートに書き付けてから、もう一度来てください。
Fight or flight (闘争・逃走)反応は、思っているより身近にあります。
2.表現出来ない怒り
というわけで、「怒り」を持つことは生物として自然なことで、むしろそれは私たちを守ってくれているものですらある。
では次に、それを表現することについてなのだけれども、マリナさんは
”親や先生、カウンセラーなど、周りの「良き大人」は、憎しみの感情はよくないと言うかも知れない”
と言っている。
ここは大人への不信感がよく表現されていて、個人的には大好きなのだけれど、一応、心理屋の端っこの人間として、これに訂正を入れておきたい。
カウンセラーはネガティブな感情を否定しない、というのが基本姿勢であると。
いやもちろん、カウンセラーも人間なので、疲弊し、もうネガティブ感情は受け付けられないよ、という人や技術的に未熟な人もたくさんいると思う。
けれど、カウンセリングで「怒り」が出てきたら、それはとても重要な局面であることは間違いなく、怒りを表出できる関係性、というのは関係性の成熟度を測る一つの目印でもある。
「怒り」と対峙するのは、とても難しい。特に、今まで押さえつけられ隠されてきた怒りほど、漏れ出はじめたらもの凄い勢いと質量で襲いかかってくる。だからこそ、本人も持て余し、周囲も見ないふりをする。
けれど、傷つきを慰めるためには、避けては通れない。生き残るためには怒りを無視することは出来ない。だからカウンセラーたちは、怒りの表現のための「安全な場」を作ろうと一生懸命なのである。
時には、「まあまあ」と、カウンセラーが本人の怒りをなだめることもあるだろう。でもそれは、必ずしも怒りを否定したいからではない。
吹き出した大きな怒りがカウンセリングルームを飛び越して、実生活で爆発する可能性があるからだ。爆発することが悪い、というわけではない。その怒りを受け止められる環境ばかりではない、という現実がそこにあるからだ。怒りを表現して、更に傷ついてしまう。それだけは避けたいのだ。
と、ここまでカウンセラー擁護のような熱弁をふるったが、そうではない。
怒りはタブー視されたり表現を禁じられることが多く、受け入れられる人や場所がおいそれと見つかるものでもなければ、調節してうまく表現することが大いに難しい代物である、と言いたかったのである。
3.怒りのバランス
怒りを持つのは自然なこと。だけど、残念ながらその表現が許されない状況というのも、これまた非常に多い。
そうして膨れ上がった怒りが、自分に向いて自害に向くかも知れないし、他人に向いて他害に向くかも知れない。
自分一人で怒りのバランスを取るのは非常に難しい。
激しく怒れば怒るほど、マリナさんの言うように「中身をみずみずしく保つ」ことは難しくなる。なんせ、怒りは心と脳のメモリを食うし、コントロールも難しい。怒りが自分を乗っ取って、自分を大切にすることがおろそかになってしまいやすい。
そして、もし仮に、うまく怒りのバランスが取れたとしても、長い間その状態でバランスが取れていたものを、表現が許される環境に身を置いたときに、スムーズに怒りを表現し、癒やされていくというのは、さらに難しい。
それでも。
それでもマリナさんは、上手く「怒り」を鎧として扱い、その中身の生身の人間を大切に扱ったままで、できることなら上手く鎧を脱いでいこう、と悪の護身術の巻物を手渡す。
そこには、マリナさんの情熱と、マリナさん特有のテクニックが託されている。
マリナさん特有のテクニック。
それは、「怒り」という感情に「鎧」という名前をつけて客体化・外在化する、ということ。砂のお城の件もそう。マリナさんは感情に名前をつけて客体化するのがとても上手い。
そしてそれは、普通にカウンセリング技法の一つです。
自分に張り付いて一体化していたホカホカの感情を、いったん取り出して手にとって眺めてみる。ハア、自分の感情ってこんな形をしていたのだな。もしかしてこういう構造なのかな。そんな俯瞰的な視線で、自分の感情を扱ってみる。そうして感情を整理し、混乱の糸をほどき、自分を丁重に扱う術を知る。
鎧は鎧でしかない。自分の一部のように見えるけど、温かく血の通った自分とは別のもの。恐るるに足らず。鎧に支配されるのではなく、支配するのは自分のほう。だから、自分の意志で温かく柔らかい自分を育てることも、十分に可能だ。
そういうイメージを持つ。
出来る限り自分を守り、出来る限り自分を生かし、出来る限り自分を育たせるための、賢い「怒り」の御し方。
それがこの「悪の護身術」の実体だと思う。
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もちろん、「怒り」を適切に使いこなすのが難しいという大前提は変わらない。
簡単に鎧を着れなくていい。自分を守るのがうまくいかないこともあるだろうし、さらにその鎧が簡単に脱げるわけもない。それでいい。むしろそれは、自分をきちんと感じ取り、生の怒りを扱っている証拠ですらある。
マリナさんは鎧がうまく脱げなかった、と言ってるけど、そんなのあたりまえ。それは、鎧がどれほど自分の身体に密着し、自分を守ってきてくれたかの裏返しでしょう。スイムスーツみたいなもの。簡単に脱げてたまるかい。
そして、そこまでして鎧を脱げる場所を探し、そこまで苦労して鎧を脱ぐ価値は、マリナさん同様、私もあると思うし、いわゆるカウンセリングの最終目標というのはそこであるはずなのだ。
イメージを描いて。
自分を脅かすものから身を守るために。
怒りの炎が自分を燃やさないように。
怒りを鎧に変えて。
いつか、その鎧を脱いで、温かい誰かの暖かさを感じられる、そのときまで。
(前半終わり)
後半はこちら。