内省好きな私のために
久しぶりに友達に会うとよくかけられる言葉第一位が、
最近SNSで考えすぎな投稿結構してるけど、大丈夫?なんかあったの?である。
確かに以前のSNS上では社交的な面の私の姿をなるべくそのままでお届けすることを心がけ、Twitterアカウントはかわいい猫の動画をRTするか、自分で面白いと思ったことをつぶやく、ほのぼの(?)コンテンツの共有場でした。
だから現実の私と私のアカウントを長らく見続けてくれていた人が近年の考えすぎツイートを見て、こいつ病んだのかと思ってしまうのは自然な思考な訳です。
じゃあ、なんで急に考えすぎツイートをするようになったんだよ、という点に関してですが
これは簡単な話で、記憶より記録を重視するようになったからです。
人は忘れる生き物です。一年前にどんなことで悩んでいたのか、その詳細まで覚えている人間はいません。いないとは言い切れないのかもしれませんが、少なくとも私はそうなんです。困っちゃいますね。
ちょっと思い出したので書きますが、大ストレスで脱毛や慢性的な膣カンジダを患った高校時代、本当にあんなに苦しかったのに、そうなるまで悩んだ理由をぼんやりとしか覚えていないのです。人間は都合の悪い記憶を身を守るために消すことがある、なんてことが科学的にも証明されていますが、もしそうだったとしても、私は昔の悩み事の理由について、覚えていないことをたいへん悔しく思うのです。
当時の悩みをどうゆう思考プロセスを経て乗り越えてきたのか、それを覚えておくことは自分に今後来たる困難に対処するために何かしらの武器となるはずだから。
まぁ、そんな訳で一般公開のSNSになるべくその瞬間に思ったことを投稿して定期的に振り替えられるようにしておいたら、各方面から心配のお言葉をいただくようになってしまいました。みんなお優しいのね。
そこでInstagramの自分限定公開の日記アカウント、みたいなのを始めた時期もありました。(今でもちょくちょく続いてます。これおすすめ)
日常生活のなかでの発見やより効率的に生きるためにするべきこと、感動したこと、疑問をその日撮ったいい感じ写真と共に投稿して記録し、時にはアーカイブから"あの頃の自分"を振り返ったりもしていました。これが面白く、2ヶ月前までの自分は底なしのポジティブガールだったりします。
しかし、他人に見られることを目的としないそのアーカイブたちは、当時の心境を赤裸々に語りすぎて、熱くなりすぎて、話題が飛躍しすぎて、ちょっと何言ってんのこいつ。ってなっちゃうことが結構あり、これらのおかげで結果誰かに見られているという自覚を持って冷静になりつつ文章を書き綴る体制をとることが大切なのだと気付かされました。
そんなこんなな流れを経て、私は悩むのです。確かに、興味のあるコンテンツの集まるSNS上で突然知り合いが温度感の違う投稿を投下してるのを見ると気持ちの良いものではないかもしれない、私が今までしていた考えすぎツイートはみんなの気分を害していたかもしれない…でも、誰かに見られるという緊張感も記録を取る上で必要となってしまう…どうすれば良いものか…と考えた末、思い出したのがnoteでした。
noteは見てる人も書いてる人も"語る"ことに対して抵抗を持っていないから、すぐ考えすぎツイートをしてしまう私でも目立たない環境だろうと。ちょっとネガティブな理由付けではありますが、こうして以前までは見る専門だったnoteを書き綴って見ようと思い立った訳です。
継続力も文章力もない私が、一発目に長文を書き綴ると今後絶対続かないと思って避けたかったのですが、ここまで書いちゃったので、仕方ない。
不定期で気ままに人生の記録を綴って行ければいいのかなと、そんな意気込みで内省が好きな私のためにnoteを始めた次第です。