もしもの時に報せてもらえる関係でありたい。
もしも人生をやり直せるなら、一人でもあの町に住み続ける道を選びたい。何度も繰り返しそう思うのは、Hさんの存在ゆえ。20代の半ばを過ごした岡山県備前市吉永町のお母さんとお父さん。
今年の春、お父さんが亡くなった。その町に暮らす知人から、「訃報はもめさんに伝えておいた方が良いと思って。Hさん、いつももめさんのことは気にされてるので」と連絡がきた。普段連絡を交わしているわけでない知人からの連絡は、訃報なのにも関わらず嬉しかった。
お父さんが亡くなる直前、泊まりに行く約束をしていたが、コロナを理由に直前でキャンセルになった。もしかしたらお父さんの体調が思わしくなかったからかもしれない。
秋、会いに行くことにした。たわわに実った収穫前の稲穂が揺れる田んぼが目に入って安堵。良かった、不耕作地になってない。数年前から一緒に暮らす息子さんが、草刈りや稲作などお父さんの代わりを担っていた。野菜と米を主にお父さんが作り、一部のエリアは、自然を愛するお母さんの聖域として花を育てていた。ターシャを見るとHさんをいつも思い出す。
家を覗くと、網戸の向こうから笑顔のお母さんが見えて、さらに安堵。土間で腰をかけてしゃべる。収穫されたイチジクが籠に並ぶ。この土間がとても好き。お母さんが育てた草花がドライフラワーとして吊るされていて、ユーカリやラベンダーをもらって、私も真似して自分の家の土間やトイレに吊るしたりしていた。かつて、Hさんちの目の前に広がる田んぼの一部を借りて稲作をしていたことがある。早朝から一人で草を取っていたら、お母さんがこっちを見て、「よう頑張ってるねえ」とスイカを差し入れてくれ、この土間で日を避けて休憩した。友達が来た時は、ほぼ必ずHさんに紹介し、「野菜持って帰る?」と言ってくれ、畑に出向く。この日も、ハーブ、ゴマ、ピーマン、茄子、四角豆、ミョウガ…そして玄米。京都まで持って帰るのは大変なくらいいただいた。私にとってはこの畑が故郷で、Hさんが育て、収穫してくれる野菜がお袋の味だ。Hさんの野菜を食べると、心が満ち満ちてくる。
Hさんが近所にいる暮らしが、本当に大切で愛おしかった。暮らした年数はそう長くない。当時の配偶者の意向に寄り添い、この町を離れてからもう10年が経つ。10年の間に、本当にいろいろなことを経験した。酸いも甘いも噛み分けた今の私が、あの日の岐路に立つならば、お腹に子どもがいようと一人でこの場所で暮らす選択をするだろうなと、時折思う。もちろん、こんなことを思ったところで仕様がなく、あの日の選択があったから、その後の愛おしい出会いの数々があるんだけれど。
お父さんとそっくりな息子さんが、こっそり手招きし、私に言う。「もめちゃん、今、幸せ?」私が頷くと、爽やかな笑顔で親指を立てた。