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虫歯の宿題。
「田中さんのお母さんは、子育てに成功されましたね」
診察台で大きな口を開けたまま、右上に位置する歯科医のユニフォームの紺色を確認した。
実におよそ10年ぶりの歯医者である。娘が小学校で実施された検診で「要治療」と判断され、治療の証明を学校に提出する必要があり訪れた。虫歯には、まったく気づかなかった。
同時に私も定期検診を勧められた。妊娠中の妊婦検診で無料で検診を受けられると知り、行った以来。娘の年齢を計算すると、ざっと10年ぶり。そう告げると歯科衛生士のお姉さんが、ギョッとした顔を覗かせた。歯医者に定期検診に行く、という「常識」をこの時初めて知った。
しかし、私の口内に虫歯菌はまったく見当たらなかったとのことだった。
「虫歯菌ってのはね、3歳頃までに定着しないようにするのが大事なんですよね。だからね、田中さんは子育てに失敗したけど、田中さんのお母さんは子育てに成功しましたね」
院長先生は、パワーワードを閃いたぞ、と言わんばかりに嬉々として伝えてきた。歯科衛生士のお姉さんが「虫歯の面では、ですね」と、上司と患者の両方に配慮して静かに口を挟んだ。
2、3歳。
この頃は、子育てにまつわる有象無象の情報の沼の中から何を選び取れば良いのか、混じりっ気のない、純粋な生命体に何を与え、何を与えるべきでないのか判断基準を持てないでいた。
情報の沼から距離を置くように、「ありのまま自然のまま」をひとつの判断基準にするようになったていった。考えない、という選択だ。育児の教科書のように手を尽くしてきた自分の母親の助言にもあまり耳を傾けなくなっていった。子にキスをたくさんしたり、口移しをすると虫歯菌が移るという定説を、私の子育て論から排除した。
10年前、「子育て失敗」発言に遭遇したら、激しく怒り、気持ちを取り乱していたことだろう。
娘の治療のため、今後、小刻みに歯医者通いが決定した煩わしさは、過去の自分からのツケ。もちろん、教科書通りに尽くしても、同じ今がやってきているかもしれない。
初めての出産を控えた頃の私に母が言った言葉を思い出す。
「子育ては、“受けて立つ”よ」
何に?という私の問いに「すべてよ」と答えた。
母のおかげか否か、虫歯ひとつない口の中の歯石を取り除かられながら、母にメールしよう、そう、ぼんやり思った。