星を求むる蛾の願い
祖母が他界した。
96歳で老衰とのことだった。
祖母のことを、わたしは憧れていた。
好奇心が旺盛で、生涯学び、アウトプットを続け、趣味は仕事にもなり、90代に至るまで世界へ旅をし続けた。
祖母の家は、わたしの実家と隣り合わせ。父方の祖母であり、祖父の介護をきっかけにわたしが小学生にあがるタイミングで引っ越してきたのだが、当時の母と祖母の間には嫁と姑のいろいろがありそうだったので、母の目を盗むように、こっそり訪れては長居をし、二人っきりで話をするのが好きだった。日頃わたしが食べないような外国のお菓子や紅茶を出してくれた。油彩画や水彩画を描き続けていたアトリエには画材やキャンバスがたくさんあり、ヨーロッパを中心に旅した思い出は、スケッチブックに丁寧に写真やチケットなどを貼り、世界中で集めたお土産が並べられた棚は美しいギャラリー。祖母の目に留ったものは、石ころひとつも、とてもセンスの良いものに感じられた。
数少ないわたしの海外旅行の経験の一番初めは、祖母に連れて行ってもらった。80歳手前の祖母は、まだ10代後半のわたしより遥かに活発で、偶然の出会いに身を任せて旅を展開させたり、言葉の語源を探求したりしていた。
いつも美しくしていて、一人の女性であった。だから「おばあちゃん」は似合わなく、孫たちは「マミー」と呼んでいた。
はじめて田舎の方に暮らし始めた時、祖母を招いた。神戸のど真ん中で生まれた祖母には不似合いかと思ったけれど、縁側に外国風のワンピースがよく似合っていた。「ガールズトーク」と称し、女の友人を何人か招き、祖母を囲んで話を出来たことを思い出した。
弔辞で初めて知ったのだが、英語を学んでいた祖母は、25歳の頃に「若草物語」を翻訳し出版、社交ダンスなどはプロ並みの腕前、神戸まつりでサンバを踊れば翌年のポスターに掲載されたなどと、活発的な96年の人生の晩年のほんの断片に触れただけだったんだなあと思った。
弔辞の最後には、祖父が恋愛中だった時の祖母に贈った外国の詩が紹介された。涙で聴き取りにくい上、難しくてよく分からなかったけれど、祖父から祖母に贈った詩の別のエピソードは、祖母から聞いたことがある。刺繍家でもあった祖母が、蝶のつもりで制作していた作品に対して、『星を求むる蛾の願い』というある外国の詩の一節を添え、祖母は、その詩に似合うように刺繍を仕立て直したと。
自分のパートーナーシップにおける価値観に強く影響を受けた。このエピソードを含む、家族にまつわるドキュメンタリーを制作したことがある。もう10年も前のことだ。
棺の前で賛美歌を歌いながら、祖母に、今のわたしの話をしたくなって、無茶苦茶に泣けてきた。祖母は、身内の中で一番、わたしの生き方に共感をしてくれた人だ。祖母もまたわたしのことをそう思ってくれていた。「孫の中でも、ゆうちゃんが一番マミーの話に興味を持ってくれるし、生き方に近いなって思ってる」って。
90歳近くまで運転をし、働き、友人を家にたくさん招いていた。「おばあちゃん」にならない祖母が憧れだった。「もう危ないから」と、祖母の子一同は運転をやめるように促し、最晩年は、介護付きのホームに入居していた。祖母の脳内には美しい思い出だけが残り、母に対しても感謝の言葉ばかり述べていたようで、身内に尽くすことが喜び(に見える)母は、長年の苦労が昇華されていく数年だったようだ。
90歳の誕生日の時に電話でお祝いを述べた時に、祖母はこう言っていた。「よくそんな行動できるねっていつもいわれるけれど、前を向いていくだけ。そのかわり、後ろのことはすぐに忘れちゃうけれどね。」最後まで本当に前だけを向いて生きていたんだな。
献身的に責任を持って祖母と関わり続けていた両親に対しては言えない、無責任な感情だけれど、祖母が息絶えるまでずっと、あの美しい家で、親戚に世話になることなく、若い友人たちに囲まれて、絵を描いたり、刺繍をしたりして暮らして欲しかった。わたしはそこに、こっそり遊びに行きたかった。一人の老人として囲われないで自由にしていて欲しかった。時々電話をしたかった。仕事の話をしたり、京都の生活の話をしたり、離婚してからの今のパートナーを紹介したかった。旅が趣味の二人が楽しそうに話して、「ゆうちゃんいい人に出会ったね」って言ってくれる姿が目に浮かんだ。
生き方の断片に触れて、創作意欲や生きる意欲が湧いてくるような、マミーみたいな女性になりたい。
「まだまだ若いんだから、なんでもできるわよ」
ちょうど60年、人生の先輩の女性の説得力のある言葉が聞こえてきそうだ。