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おもしろがりたい / 星野源『そして生活はつづく』

星野源の『私』という曲がシャッフルで流れてきた。

あの人を殺すより 面白いことをしよう

星野源『私』(2019)

「すごい歌い出しだなぁ」と思いながら聴いていたら

あの人を殴るより イチャついて側にいよう
(中略)
私を見や ここに居ては
希望どもが 飽きれたまま
死ぬのだけじゃ あんまりじゃないか 喉は枯れた
この人を抱き寄せて 面白いことをしよう

同曲より一部抜粋


星野源ってなんか「面白い」ってワードをよく使ってるイメージがあるなぁ…ってなんとなく独り言が浮かんだ。

いつか読んだ本でも似たようなこと書いてた気がするなと思い、家にある星野源のエッセイ本を久しぶりに開いてみた。

前回読んだ時は、星野源の母親の「あんた、生活嫌いだからね」という言葉が一番印象に残っていたので、「星野源=生活が嫌いな人、支払いとか事務手続きとか面倒なことを後回しにする人」というイメージだった。

「過労?……ああ。あんた、生活嫌いだからね」
(中略)
「掃除とか洗濯とかそういう毎日の地味な生活を大事にしないでしょあんた。だからそういうことになるの」

星野源『そして生活はつづく』(2013,文藝春秋,p.28)

 そんなわけで生活をおもしろがりたい。
 しかし、ただ無理矢理に向き合うだけじゃすぐに飽きて同じ失敗をしかねない。むやみに頑張るのではなく、毎日の地味な部分をしっかりと見つめつつ、その中におもしろさを見出すことができれば、楽しい上にちゃんと生活をすることができるはずだ。そしたらあの「とてつもない虚無感」もなくなるかもしれないし、感じたことを素直に表すのも上手になるかもしれない。

同著より(p.29)

「生活をおもしろがりたい」「おもしろさを見出す」と書いてあった。

ほかの部分を読むと、そのおもしろがりたい理由は、人生に前向きに向き合うというよりは、現実の見たくないことや虚無感から逃げるためであり、どちらかというと、いや思いっきり後ろ向きだった。(逃げ恥への伏線だったりして)

完全な偏見だけど、夏休みの宿題、ギリギリまで終わらせられないタイプの子供だっただろうなぁって少し思った。笑

歌にも、「ふざけた・くだらない・踊る・笑え」といったような喜劇的なワードがちょくちょく出てくるし、一方で「虚構・嘘・殺す・殴る・死ぬ・地獄」とか悲劇的なワードもたくさん出てくる。

ネガティブなことを単にポジティブに変換というよりも、積極的に「おもしろがる」ことで人生の恐怖や苦しみから逃げてるんだろうな、と思った。

人を殺すかわりに、殴るかわりに、嘘に絶望するかわりに、おもしろがる。綺麗事じゃなくて、ひとつの現実的な対処法として。

悪口や愚痴を言うより、おもしろがる。
イライラするより、おもしろがる。
傷ついて落ち込むより、おもしろがる。

楽しいことやすごいことがあったからおもしろいんじゃなくて、どんなことも全部主体的におもしろがる。星野源のような多彩な才能はないけれど、そのやり方は私もすぐに真似することができる。

よく考えれば、それに似た感じのことを私もすでにしている気がする。20歳くらいから、「変なの」「理解できない」と思ってしまった時は、「おもしろいな」という感想に変換するようになるべく意識している。

そのほうが、「変なの」で終わらせるよりも後味がよくて、偽善とはいえ少し善い人間になれたような気がするから。


芸人のすべらない話や、作家のエッセイや、落語家など、表現のプロたちの話も、珍しい出来事というよりも、人間のどうしようもないダメダメなくだらない話が多いし、そのほうが受け手としても共感できておもしろい。

経験していることは実は一般人とあまり大差なく、話芸や文才などの才能や努力で、歌とか絵とか映画とか小説とかのなにかしら伝わりやすい形にして、みんなと一緒に辛いことを笑い飛ばそうとしているだけなのかもしれない。(お金が発生している以上、そこにはまた別の苦しみもあるんだろうけど)

「やりたいことをやる」「人生を楽しむ」「自分らしく生きる」とかそういう明るく抽象的な目標よりも、「面倒なことや辛いことすらもおもしろがる」のほうが、なんか具体的なアクションが見えるしいいな。

来年の抱負はそれにしよう。
まずは一番面倒な家事をおもしろがりたい。特に料理。

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