エッセイ「右側通行チャレンジの日」
2024年3月21日、夕
改めてTwitterは良いと思った。今日はまだ馴染みのない「X」よりも「Twitter」と呼びたい気分だ。
類型界隈にどっぷりと浸かるため、ついにアカウントを作成し早1ヶ月。「類型垢」とは言っても人それぞれ楽しみ方があるようで、まだ距離感を掴むのが難しかったりもする。それでも文字通り「いろんな考え」に触れられる世界は面白い。自分にはない物の見方、考え方を持つ人々は皆、「先生」だ。ありがたいことにTwitterには私の先生がたくさんいる。
今朝はバスに乗って出勤することにした。私は音楽を聴きながらずんずん歩く時間がこの上なく好きだが、今日はあいにく具合が悪かった。
平日だというのに珍しく乗車率50%を超えたバスに揺られながらふと思う。「バスっていつも私の右側から来る気がする」──言葉にならないモヤモヤが生まれたので頭の中から「知識」を探してみる。しかし「車は左だか右だかどっちかを走ると決まっている」くらいしか見つからない。
次に「記憶」を探ると、確かにこれまで私は毎回右から来るバスに乗っているらしい。例外が見つからないのでこれは真実かもしれないと心が踊るが、まだ半信半疑だ。
そんなこんなであれこれと考えを巡らせていると、「歩行者の"右側通行"って、誰から見た何が"右"なんだ?」という疑問が湧いてきた(厳密には「考えても分からないボックス」で長年眠っていたソレが勢いよく飛び出してきた)。頭に湧いたものはサッと捕まえなければまたボックスで埃をかぶることになってしまう。私はすぐさまTwitterに疑問を流した。
先述の通り、Twitterには「先生」がいる。それも1人や2人ではない。先生達はそれぞれの言葉で私に説明をしてくれる。残念ながら「教科書だけでは理解できない人」な私は、様々な表現での説明を聞くことでようやく答えに辿り着ける確率が上がる。Twitterはそんな私にとってありがたい環境なのだ。
結局のところ何が右なのかを自分の言葉にするまでには至らなかったが、とにかく「歩いている自分の左の空間へ車が向かってくるように流れれば良い」ことには納得できた。と同時に、私はこれまで30年近い人生を「左側通行」していたことに気付いた。何という失態だろう。ルール違反を犯していただなんて。早急に正さねばならない。今日の家路はこの足に「右側通行」を教えてやろう。
そうして右側通行チャレンジに挑みながら今し方帰宅したわけだが、私は自身の根深い問題に気付いてしまった。「何が右なのか」よりはるかに重大な問題がすぐ足元にあった。どうやら私は「人の目」を避けたくて仕方ないらしい──。
右側通行をすると車は私に向かってくることになる。人間が時速40kmで迫ってくるのだ。普段から私の目は無意識に「人の目」に吸い寄せられるので、当然車の中の人間にも目が向いてしまう。とても──とても、しんどい。とてつもなく、しんどい。見たいわけではないのに勝手に意識が行く。口ほどに(もしかしたら口以上に)物を言う目が見える。私には処理できない速度で次々に迫ってくる。ダメだ、目が、回る。
結局、私の挑戦は道半ばで終わってしまった(道だけに)。人間の気配は後頭部で感じるくらいがちょうど良い。ましてや鉄の鎧を纏った高速人間の気配を直にこの目で見るのは刺激が強すぎる。
ただ「道を歩く」それだけのことがどうしてこんなにも難しいのだろう。私は生まれたての子鹿にも及ばない。子鹿は右も左も知らないが、それでもただ真っ直ぐ歩きながら目を回すことはないだろう。一度、奈良の鹿でも拝みに行ってみようか。奈良行きの高速バスもきっと私の右から来るに違いない。