見出し画像

趣味に生きるか、他者のために生きるか

おはようございます。

8月も中旬をむかえようとしています。いかがお過ごしでしょうか?

元妙心寺派の管長山田無文老師の『心の眼を開く』とフランスの哲学者アランの言葉から、生きるとは何か考えています。

皆様におかれましても、生きるとは何かを考えるきっかけにしていただけたら幸いです。

「今の日本人が、何を目的として生きておるか、何を理想として生活しておるか、どういうことに生きがいを感じておるのか、とこういった調査のようでしたが、その簡単な新聞の発表によりますと、今、国民の80%が、趣味に生きておるとありました。

国民の80%が、みんなそれぞれに趣味に生きている。

社会のため、人のため、世の中のために働いて、そこに生きがいを感ずる、という考えは非常に少ない。

敗戦までの日本人は、国のため、社会のためと使命感にもって生きている人がおおかった。」

この文は、禅僧の山田無文老師がいまから40年ほど前にかかれたものです。

私も、趣味のために生きているかもしれないので、山田無文老師のこの言葉に考えさせられました。

自分のため、家族のために生きることはできても、なかなか社会のため、日本のため、そして人類のために生きるとう考えにはいたれませんでした。

他者に、自己の魂をささげることが、本来の人間であると思います。

フランスの哲学者アランは、「人間の魂は、肉体を拒否するなにものかである。」といっています。この意味は、身体の本能のままに生きるのではなく、他者のために生きることにつながる思想です。

フランスの哲学者アラン

アランの生き方を、わたしは尊敬しています。第一次世界大戦が発生したとき、フランスのために兵士になることを志願しました。この時アランは40代、有名校の立派な教授の立場でありながらでの志願です。

アランはすでに著名人だったためフランス軍は、危険がすくなく安全な後方部隊に配属しようとしますが、アランは、前線で戦いたいと頑なにこだわり、20代の若者と一緒に過酷な塹壕戦をたたかいぬき、片耳が聞こえなくなったといいます。

ヨーロッパの塹壕戦

頭で考えるだけの哲学者ではなく、生き方で体現しているところにアランの凄さを感じます。

国のために、自分の地位も命も奉げる。

趣味に生きることは、自分のために生きること。

これでは、本来の人間ではない。

戦後に生まれたわたしは、どうしても国に奉げるなどはできない。

趣味を楽しみつつも、社会のため、日本のため、人類のために精進しようとおもっています。

それでは、みなさま、素敵な日曜日をお過ごしください!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?