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工房を辞めた美の職人さんに会いに行く日

例えていうなら、私は美しく華麗な装飾を施したヴェネチアングラスを持っていたのだと思う。

見つめるだけで幸せな気持ちになり、その時々の光の加減で多種多様な輝き方を見せてくれるそのグラスを、いつもうっとりと眺めていた。
どんなに苦しい事があってもそのグラスの輝きを支えに自分も頑張ろうと思えたし、そのグラスを持つのにふさわしい人になりたいと思ってきた。

繊細で華奢な作りの品だから、いつかは壊れてしまうだろういう不安は常にあった。
手にするたびにほんの小さなほころびも見逃さないよう確認して、まだ大丈夫と安心していた。
でもきっと目に見えない小さな亀裂が、いつのまにか入り込んでいたのだろう。
私の大切なグラスはある日突然、私の手の中で音もなく砕け散ってしまった。

今の今まで、見つめるだけで幸せな気持ちにさせてくれたグラスは、触れると指先を切り付けるガラスの破片に変わった。
私は、その破片の山を呆然と見つめたまま数ヶ月を過ごした。


今日は、同じヴェネチアングラスを愛好していた仲間が集って昔語りをする日。
あのグラスを作ってくれた職人さんも参加してくれる。
職人さんは、工房はやめてしまったけど、やめてまだ間もないから、工房の仲間や、グラスの作成秘話などを、きっとたくさん話してくれるのだろうと楽しみにしている。

美を追求する事が好きな職人さんだから、これからも美しいものに関わってくれると思う。でも、もし何らかの成果物を生み出すとしても、私たちがそれを享受できるのか、個人に向けたオーダーメイド品になるのかは分からないし、同じ職人さんが作ったものだとしても私がそれを好きになるかもわからない。

もしかしたら、職人さんも昔いた工房が恋しくなる時が来て、私が持っていたグラスを模したものを作る事があるかも知れない。
私はきっと、それを欲しいと思ってしまうのだろうな、自分が持っていたものとは別物だと分かってはいても。

ともあれ、あの職人さんには幸せでいて欲しい。
私はあのグラスを見る事で、とても多くの幸せをもらったし力づけられた。それは間違いはない。

私は、この会合が終わって帰宅したら、放って置いたガラスの破片の山を片付けようと思う。
もう絶対にありえないと知りながら、もう一度あのグラスの形に戻ってくれないかと、発作的に破片の山に手を突っ込んで血まみれになるのは馬鹿げている。

好きなものを好きでいる事で傷つくのも、好きでいる対象がもうないから、好きだと言うかわりに、こんなに傷ついたのですよと血まみれの手を差し出すのも馬鹿げている。

あの工房には他にも美しい工芸品を生み出す職人さんが大勢いる。
あのグラスと似たものを作る人も、全く違うけれどやはり美しいものを作り出す人もいる。

あの工房以外にも、素敵なものを生み出す場所や人はこの世界には沢山ある。

いずれにしても、ひとつのことに執着する気持ちを手放しさえすれば、私はこれからもこの世の中の美しいものをたくさん受け取る事が出来るはずだ。

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