コロナ禍中に大好きなタカラジェンヌさんの退団を経験して思ったこと
愛するものを失う辛さは「時」という優しい友達に抱かれることでしか、癒すことはできない。
大好きだった人の退団発表から東京の千秋楽までに、私には約4ヶ月間という時間があった。
短いようだけれど、一定のまとまった時間だったと思う。
今思えば、その時間は彼女からの贈り物だったのかもしれない。
私は、その貴重な時間の使い方を間違ってしまった。
強い愛を持ち続けるだけではなくて、彼女への気持ちを少しずつ薄めていくことに使うべきだった。
退団を決めた彼女たちは、その時点でタカラジェンヌとして、男役としての未来を手放す決意をしている。
最後の日に、素のひとりの女性に戻って、幸せそうに舞台上であいさつする彼女たちは、そこに至るまでに、タカラジェンヌでいる事や男役への執着を、少しずつ手放しているのだと思う。
トップスター以外の退団発表は、次回公演の集合日だから、ファンにとっては晴天の霹靂以外の何物でもない。
いつか来るとは分かっていても、それは常に「今ではない、いつか」なのだから。
タカラジェンヌとしての未来を、己の中にもう持っていない彼女たちと、その未来を今の今まで信じていたファンとの間には大きな気持ちの隔たりがある。
ファンは東京千秋楽までの期間に、その差をなんとかして埋めて、彼女たちの気持ちと濃度をそろえて最後の日の朝を迎えなければならない。
好きな人のタカラジェンヌとしての姿を、男役としての姿を、永遠に諦める覚悟をしなくてはならない。
かつて私たちは、劇場に行きさえすれば入り出待ちで彼女たちに会うことが出来た。想いを込めた手紙を手渡して、瞳を交わし合うことが出来た。
ファンクラブに入っていなくても、ギャラリーやお茶会に参加すれば、その姿を見て言葉を聞くことが出来た。
退団を決めた後の彼女たちの、身にまとう雰囲気に退団への覚悟と決意を感じ、その眼差しにファンに対する愛を感じ、公演の期間すべてを使って、少しずつ彼女たちの気持ちに寄り添っていくことが出来た。
今はそれは出来ない。
だから、私たちは、自分たちの力だけで彼女がいなくなることを納得し、その事実を受け止めて消化しなければならない。
好きな人の退団が発表されたら、ファンは悲しみながらも「悔いなく見送ろう」と思うはず。
けれど、コロナ禍においてファンができることは二つしかない。
観劇する
お手紙を書く
たとえ普段の観劇回数を2倍に増やして、舞台上の彼女を見つめても、2倍充実感を得られるという訳ではない。
100回見たら、退団を納得できるわというけではない。
たとえ全公演を見たとしても、その姿のすべてを目に焼き付けられるわけではない。
お手紙は彼女にとって、この時代の中で舞台を務めるモチベーションを保つ力になっていることは確かだとは思うけれど、ファンの側からしたら、相手に届いている手ごたえも、それが力になっている確証も、公演期間中には得られない。
ファンとの直接の交流は出来なくても、ご本人は劇団内で粛々と退団者としての行事をこなし、最後の日が近づくのを実感していくのだと思う。
自然にまかせていては、ファンはその心待ちに追いつけない。
私は、宝塚大劇場の公演で何が何だか分からないままに千秋楽を迎えてしまい、舞台上で赤いバラを抱える彼女を見ても、何の感慨もわかないまま、ポカーンとした感じで劇場を後にした。
フェアウェルもなかったので、終演後まだ陽のあるうちに駅に向かい、ただぐったりと疲れて家に帰った。
このままではいけない、という事だけははっきりと分かった。
公演中に毎日のように入出待ちをしてご本人に会ったり、お茶会で話を聞いたりする事は出来ない。
千秋楽の朝、真っ白な装いの彼女の瞳に、ずっと愛し応援してきた私たちの姿を映してあげることも出来ない。
愛を込めたコールで楽屋に送り出すことも出来ない。
それを受けて、まっすぐにファンに向ける、ファンだけに向ける、彼女の輝く笑顔を心に刻みつけることも出来ない。
それが出来たかつてのファンのように、公演期間中を「退団者のファン」として過ごすだけで、自然に、彼女の気持ちに寄り添った心の状態になることは無理だとわかった。
「コロナ禍で出来ないことがあるのは仕方ない。大劇場公演の3回もの初日の延期を思えば、東京で公演ができるだけでありがたいし、千秋楽で大階段を降りる彼女の姿を見れさえすればそれで幸せ」
誰もが、そういうロジックで語っていた。
私も、もちろん公演してくれるありがたさも千秋楽ができるありがたさも身に染みていた。
だから、嘘ではないけれど心からの本心ではない言葉を連ねた手紙をたくさん書いた。
「最後の公演を楽しんでいます」
「こんなに素晴らしい作品で、素敵なお役を最後に見れて幸せです」
「最後まで見守ります」
「ファンになれて幸せです」
「退団してもずっと大好きです」
入出待ちをした思い出の場所の写真を記念に撮影して、観劇を楽しんでる様子を書いたLINEに添えて友達に何度も送った。
何度も書き、それを自分で目にすることで、書き連ねた言葉が体に染み込んで、それを心から信じられるようになったらいいと思った。
そんなことはなかった。
「嘘ではないけれど本心でもない言葉」は、私の心になじむことはなく、男役である彼女への強い執着を消す力もなかった。
観劇を繰り返し、お手紙を書き続けることで、逆に、私は彼女への気持ちを手放すきっかけがないまま、千秋楽を迎えてしまった。
千秋楽の公演の後には、もう私の愛する男役さんはいなくなる。
4か月も前から、はっきりとわかっていたことなのに、行き場のない強い愛を抱えたまま千秋楽の夜をすごした。
私は、時間の使い方を間違えた。
愛しているのなら、時間をかけて気持ちを減らしていくべきだった。
千秋楽後のイベントを、達成感と多幸感につつまれた彼女と同じ気持ちで過ごすためには、そこまでの時間で、タカラジェンヌとしての彼女、男役としての彼女への、執着を捨て去るように気持ちを整えるべきだった。
そして、幼いころからの夢をかなえ、その夢をまっとうした、ひとりの女性の門出を祝う気持ちを持って、千秋楽の日の夜を過ごすべきだった。
頭では分かっていても心が追いつかなかった。
気持ちの収め方は人それぞれ。
「悔いのないように」という言葉の意味は、人によって違う。
これから退団するタカラジェンヌさんのファンの人たちが、自分なりの気持ちの収め方、見送り方を見つけることが出来ればいいなと心から思っている。
そして「悔いのないように」と選んだやり方の結果、何らかの悔いが残るのも自然なことなのだとも今は思っている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?