戦国時代

ここで言う「戦国時代」とは、日本のそれではなく、中国の戦国時代のことです。

紀元前770年から始まった春秋時代は、それまで唯一の王であった、周の王が次第に力を失っていき、家来筋にあたる諸侯が力を持ち出した時代です。しかしそれでも諸侯は周王に対して、一定の敬意を払っていました。「春秋五覇」とは、諸侯を代表して諸侯に「起立!礼!」と号令する役割を果たす存在であると考えればよいわけです。「五覇]にはいろんな説がありますが、「斉の桓公」と「晋の文公」は必ず入ります。

さて春秋時代と戦国時代との分岐点は、紀元前453年に戦われた「晋陽の戦い」です。春秋時代の北方の超大国の晋は、紀元前6月世紀頃から、晋公の家来筋の氏族が力を持ち始め、紀元前5世紀には、韓氏、趙氏、魏氏、知氏、范氏、中行氏の6氏が生き残り、その中でも、知氏が范氏と中行氏を滅亡させ、残りの4氏の中でも最大の最大の勢力となりました。果たして知氏は韓氏と魏氏とともに、趙氏の拠点である晋陽(現在の太源)を攻めました。汾河をせき止めてダムを造り晋陽を水攻めにしました。趙氏は韓氏と魏氏に密使を送り「このまま行くと、我々超氏が滅びると、今度はあなた方の番になる。ここは手を組んで知氏を倒そう」ということではなしがまとまり、韓氏と魏氏は知氏の築いたダムを壊して汾河の水を知氏のの陣に流し込み、逃げる知氏を韓氏、魏氏、趙氏の3氏が追撃し、この戦いで知氏は滅亡し、超大国の晋は韓氏、趙氏、魏氏により三分割されました。名目的な存在になりましたが、晋公はまだ存在していました。

この紀元前453年を持って戦国時代の始まりとする説に対して、戦国時代残りの開始は韓氏、趙氏、議氏が周王より諸侯に加えられた紀元前403年が戦国時代が開始したとするの説もあります。これは後年。北宋の司馬光かわ著した「資治通鑑」では韓、魏。趙の3氏が諸侯に列せられた紀元前403年を戦国時代の開始としていることを取り上げた訳です。

この戦国時代になると周王の権威は全く失われ、諸侯は互いに戦争をして相争うようになりました。また、春秋時代の国は「都市国家」であり、農民は城壁の中に住み、昼間は城壁を出て城壁の外の田畑を耕作していました。夜は城壁の中の家に帰っていました。諸侯は領土拡大に夢中になり、小さい都市国家は大国の一都市となり、しかしながらある程度の自治が許されていました。これは周の時代の伝統を引き継ぐものだと言えます。そして周辺の中小の都市を併合しさた大国は次第に「領土国家」となって行きました。そうして七つの国が生き残りました。すなわち燕、斉、趙、魏、韓、楚、そして秦の七つの国が生き残りました。これを「戦国の七雄」と言います。韓、魏、趙は同じ晋から分かれて建国したので「三晋」と呼ばれます。国の制度や法にもよく似たところがあったのでしょう。

そして国同士の誓いでは戦車に代わり徴兵された歩兵が戦闘の中心となりました。戦国時代の初期の紀元前4世紀には、まだ5万人から10万人でしたが(例・宜陽の戦い)、紀元前3世紀ともなれば、各国とも数十万人兵力を徴兵できました(例・長平の戦い)。少し先の「戦国策」では、秦、楚、斉が70万人、燕、趙。魏が約50万人、韓が30万人とされていました。各国とも農民を徴兵することにより、之だけの兵士を動員できたのです、先の「長平の戦い」では秦は60万人、趙は40万人、合わせて100万人の兵が数ヶ月に渡って対峙して今のです。