松阪牛を食べていのちを考える
松阪で半日を過ごした帰り、町の定食屋に寄った。定食の舌だったが、折角松阪に来たのだからと、寒い懐を痛めつつ松阪牛の肉うどんを注文。松阪牛を使ったメニューの中で一番安い品だったので正直あまり期待はしていなかったのだが、軽い気持ちでしたこの選択には、値段以上の大きな価値があった。
シンプルなうどんの上に大きな二枚の肉。使われた牛の詳細を示す証明書が添えられた。そこには、生産者の写真が載せられ、ほかにも牛の名前、育てられた日数、屠殺された日など、食べている松阪牛の様々なデータを知ることができた。
大きくカットされた肉に齧り付きながら、今食べている肉は、人のもとで育てられ、肥料を食べ、先日まで確かに生きていた一つの命だったのだと、松阪牛「さとう号」に思いを馳せた。この証明書は松阪牛ブランドのこだわりの一環だろうが、松阪牛のブランド価値を知るというより、私には命を食らうことそのものに向き合わせるものに思われた。
帰りの電車に乗る間、畜産や屠畜について考えていた。持ち帰った証明書を眺めつつ、松阪牛について調べていると、下のホームページが見つかった。個体識別番号を入力し、私が食べた松阪牛について、より鮮明な記録データを見ることができた。
「さとう」の姿を見てしまったことで、単なる美味しい「お肉」としてみることがより一層できなくなった。名前を付けられ、生産者に愛情を持って育てられたのだろうと思う一方で、共に写された番号には、数ある肉牛の中の一個体として管理されていることが感じられ、複雑な気持ちになった。
今日食べた松阪牛「さとう」だけでなく、私がこれまで食べてきた鶏、豚、牛、羊といった「お肉」は、食べるために殺されるまで確かに生きていた「いのち」だ。今に知ったことではなく、見てみぬふりをしていただけで、ずっとそうだった。死ぬまでの間に一度でも屠畜の現場をこの目で見て、いのちをこの手で頂く体験をしたいけれど、情けなくもその決断ができずにいる。まず一歩、本を読んで畜産の在り方や食について考えてみようと思う。
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〆