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不老不死の者たちへ。(フリーレンとワッハマンと湧太とマルシルと。)

 アニメ『葬送のフリーレン』は言うまでもなく話題作ですよね。

 これだけのヒットの理由の一つに、アニメファン以外の層にも受け入れられたってのがあるだろうし、製作側もそちら方面でいけると踏んだからこそ初回4話『金曜ロードショー』で一挙放送などという、並のアニメでは到底真似できない戦略で仕掛けられて、そして目論見通り当たったということなんでしょう。

 で、アニメやファンタジーにも馴染みのない層が見ることができるのは、一つは「RPGゲーム的ファンタジー世界」のイメージがすでに50代(初期ドラクエに馴染んだ世代)以下の世代には説明不要なくらい馴染んでることと、本作品では千年以上生きることになっているエルフという種族の設定を生かして、時間の流れの違い≒価値観の違い辺りからジェネレーションギャップやそれによるディスコミュニケーション、または愛別離苦など人間にとって普遍的なテーマを扱っている、つまりこれを自分に当てはめるとどうだろうという興味が持てるあたりが強いのではないか~

 ~なんていうのは、これだけの話題作だともうすでに言ってる人がごまんといるでしょうし、私がこの作品についていろいろ思うことを書きたいと思いつつもいままでさぼってたのも、どうせすでに似たようなことを誰かが書いてるだろうしなぁってのがありました。
 なので、ひょっとしたら案外語られてない角度、仮に語られてたとしても例に挙げる作品次第では目新しい要素もあるかも~って思い直して、本稿を書いてたりします。

フリーレンは本当にそれでいいのだろうか

 第一話だったと思うが、フリーレンは自分よりもはるかに寿命が短い人間という種族にあまり関心を払っていなかったのが、ヒンメルというかけがえのない仲間を失ったことでショックを受けるシーン。

 『葬送のフリーレン』という作品を象徴する感動的なシーンなので、あえてくどくど説明する必要もないでしょう。今まで気にもしてなかった自分よりはるかに寿命が短い種族、われわれ人間からすれば犬猫よりも短命な種族としてそこまで注意を払っていなかった「人間」への感情が爆発するシーンです。

 でもちょっと待ってほしい。これは我々人間から見るととても感動的なシーンだが、フリーレンにとっては幸せなことなんだろうか。

不老不死パイセンアラカルト

 ちょっと違う方面から掘ってみたいと思います。
 ほんとはまず真っ先に持ってきたい作品(後述)があるんだけどおそらく一般的にはマイナーにもほどがあるので、有名作家さんの比較的無名な作品から話を始めようと思います。

『人魚の森』シリーズ

 言わずと知れた高橋留美子先生の作品の中では知名度は低いですが、ある年齢以上の漫画読みなら知らぬ人はいないくらいの作品だと思ってください。
(ちなみに5月1日までkindleで無料で読めるので、ぜひ。)

 主人公の湧太はふとしたきっかけで「不老不死の薬」として知られる人魚の肉を食べてしまい、結果500年以上生きています。

 この作品で明示されてるのは、「不老不死」は決して幸せとはならず、同じ時間を生きる者がいないので常に孤独です。故に湧太は不老不死から逃れるためのヒントになるという「人魚に会う」ために、常人では気が遠くなるような時間を生き続けています。

 上の引用にもあるように、同じ時間を生きる仲間もなく延々と生きるのはおそらく苦痛なのでしょうね。身近な例でも、パートナーに先立たれた人、特に男性はその孤独が原因で早逝するというのはわりと知られた話。

 …とまあ、比較的一般の方でも興味わきそうな例で引っ張っておいて、今回一番紹介したい作品を持ってきますのですが。

あさりよしとお先生作『ワッハマン』

 おそらく知らない方が多いと思うので、ざっとあらすじをば。

 はるか昔、アトランティス大陸で作られた最強の人間兵器。(おそらくは元は人間のサイボーグ) その体はエネルギーを物質化したとされる金属「オリハルコン」出てきてるため、食事も休息も必要とせず自己修復能力もあるため永遠に戦える無敵の戦士
 しかし故郷であるアトランティスは滅び、周囲に何一つ身近なものもない状態で一万年の時を経て日本に現れた「彼」は、時折見せる高笑いから一部の人間から「ワッハマン」と呼ばれるようになる。
 その存在を脅威と認定した自衛隊諜報部門は諜報員の長沼をワッハマンの監視にあてた。
 太古の昔からワッハマンと敵対していた同じく不老不死の存在で影から政治経済を操る存在、通称「パパ」と、彼に作られた少女型アンドロイド「レミィ」との戦いの果てに…。

…とまあ、もっともらしいストーリーではあるものの、要するにかつて紙芝居や貸本などで人気があり、TVアニメまで作られた往年の名作『黄金バット』のパロディというか、あさり先生なりのオマージュ作品であり、そもそももともとの『黄金バット』自体がわりとあいまいな存在で、紙芝居・貸本時代にどんどん亜流が作られてオリジナルすらはっきりしない状態なので、本作品もTVアニメなどと同じくその傍流の一つとして考えていいかと思います。

 本稿で肝心なのは、そのワッハマンが「一万年の時を経た」存在であり、当然ながら故郷や親しい人々とはとうの昔に死別している上に、今現在目の前に対峙してる人間ですら、遠くない未来に自分を置いて過ぎ去ってしまうということ。
 当然ながらフリーレンもそれに近い境遇なのです。

『ワッハマン』の作者あさりよしとお先生はもともと科学に造詣が深く、学研の科学漫画を描いたり実際にロケットを製作するチームのメンバーになっていたりと科学に通じた方だけあって、SF的設定にはかなり凝っているイメージがあるのだが、本作では
「一万年に及ぶ時間の孤独に人の精神は耐えられるか」
という命題に向き合ってます。

 ワッハマンは作中のほとんどの状況で意識を深く沈めた状態であり、ときどきうっすらと意識がもたげてくるくらいで、覚醒するのは自分や周囲に危機が訪れたときの「戦闘モード」になった時くらい。
(この辺り、作中での自衛隊諜報機関は、ワッハマンの覚醒レベルを4段階で分類していて、普段の自閉的な状態をレベル1、完全に覚醒した状態をレベル4としている)
 あさり先生はおそらく自閉的になることで精神を守れると考えたのだろう。先に上げたパートナーに死に別れた夫婦の片割れの様に、人間は孤独に耐えられない。老人ではなくても自閉症や引きこもりと言った孤独に生きる存在は、ふさぎ込むこと自体が自分を守るすべなのかもしれない。
(一応私自身もそのような経験があるので、偏見で語ってるとはとらえないでいただきたいです)
 個人的には、ワッハマンはとにかく食いしん坊だけど実際にはオリハルコンの持つエネルギーによって食事は必要なく、どうやら精神的な安定のためだけに食事をしている(邪魔されるとキレる)というあたりはすごくリアルだと思います。

 もう20年前の作品なのでネタバレはご容赦いただきたいが、この作品のラストは本編での「パパ」との戦いに勝利したものの、結局は孤独な存在に戻らざるを得なかったワッハマンに対して、彼に恩を受けた人々が彼に向けた贈り物があった。それは、同じく(メンテさえすれば)永遠に生きられるアンドロイドのレミィ。
 遠い未来、人類が死に絶えてしまった未来の地球で一人呆然とたたずむワッハマンの前に、孤独にならないようと送られたパートナーの前に思わず…。

レミィ「何わらってんだよ」

 ほんと、この漫画私大好きなんですが、特にこの締めのシーンが。
(実はこれは単行本のラストで、雑誌掲載時には違うラストだったはずで私も読んだはずなのに覚えてないのが口惜しい)

 『ワッハマン』『人魚の森』のおかげもあって、長く生きるのもそんなに楽しくなさそうだなぁってのが刷り込まれた私ですが、それはやっぱり人間がなんだかんだ言っても社会的な生物であって、単独で生きる様には出来てないからだと思います。
 余談ながら、みなもと太郎先生の名作歴史ロマン『風雲児たち』大黒屋光太夫の話で、光太夫が漂流の果てに行きついたロシアの街の孤独な生活に涙した女性が書いた歌の歌詞に「なにもかもなつかしいものはない」というくだりがあった(うろ覚え)のを思い出します。
 孤独は死に至る病なのです。

 で、これまたタイミングがいいことに、『フリーレン』とほぼ同時期にアニメ化された話題作『ダンジョン飯』でも同じモチーフが使われています。
 『ダンジョン飯』の世界ではいわゆる「短命種」と呼ばれる種族、トールマン(いわゆるわれわれ人間。寿命60歳ほど)、ハーフフット(寿命50歳ほど)と、「長命種」と呼ばれるエルフ(500歳ほど)、ドワーフ(200歳ほど)、ノーム(240歳ほど)という多様な人種が入り交ざって生活していますが、アニメ視聴組にはネタバレになるのでボカシて示しますが、この寿命の差が本編の重要な要素の一つになっています。
 とある長命種のキャラクターが、長命ゆえに大事な仲間たちをを見送り続けなければいけない運命に抗おうとする、というような。

 じつはこれだけではなく、今まで多くのSFやファンタジーの世界で、寿命の違う人物間における悲劇は多く描かれてきました。最近目立つ例が重なったので顕著になっただけで、実はそう珍しいことではないのです。

振り返ってフリーレンはどうなんだ

 前もって言っておきますが、私は『葬送のフリーレン』はアニメしか見ておらず、今現在の原作でどこまで描かれてるかは不明なので、その辺のツッコミはご容赦いただきたい。
 フリーレンは他人に関して比較的無関心であり、それが長命種の驕りという印象も受けます。
 しかし、今まで述べたように、長命種の精神は長い時を耐えられるのか?という愚問が残ります。特にフリーレンの様に、家族や身近な人間を幼少時に失った人物にとっては特に過酷ではないでしょうか。
 フリーレンが周囲、特に短命主たる人間に対して関心が薄かったのは、実のところ自分を守るためじゃなかったのでは。

 アニメではこの辺のところはまだ明確に描かれてはいませんが、アニメの現時点でも人間に対して興味が薄い(薄かった)描写から、原作者様がその辺のところを全く考えてないとは思えません。
 わかっててあえて無視してるのかもしれないし、のちのちかなり辛い描写として現れるのかもしれない。
 少なくとも、アニメ後期EDの人形アニメではおそらくフェルン亡き後のフリーレンが描かれてるっぽいので、アニメスタッフはその辺のところを意識してるんじゃないかと思います。少なくともこの作品はそういう悲劇を内包した物語であるということを。(本編で描くかどうかは別として)

 フェルンを失ったフリーレンは、その後どうやって孤独と向き合っていくのか。原作はそこまで描かれるのでしょうか。興味は尽きません。


 ちなみにこの記事のトップ絵に掲げたのは、アウラの話の直後のSNSのフリーレンワンドロ(ワン:一時間でドロ:ドローイング)で描いたネタ絵です。
さすがにこれだけ雑な絵でも人物3人描くのは大変でした。

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