正岡豊『四月の魚』
正岡豊さんの『四月の魚』(書肆侃侃房)を拝読いたしました。
印象に残った歌を引きます。
唐突感のある一首だと思いました。
「ぼくたち」は人間であるはずなのに、ゼムクリップでファイルしてしまおうなんて。
黒いゼムクリップじゃダメなんですよね。
ありますよね、パステルカラーのゼムクリップ。
あれで「ぼくたち」をファイルする。まとめてしまう。
「ぼくたち」は今個別に立っていて、もっともっと一つになりたい。
「ぼくたち」と言っていますが、相手はどう思っているのでしょうか。
主体の強い想いとは裏腹に、相手は今のままの距離感でも良いと思っているかもしれません。
だから主体は、ゼムクリップという強制的にまとめる装置を求めたのでしょうか。
クリップによるとは思いますが、ゼムクリップは結構バネがきついイメージです。
主体の相手に対する想い、執着が感じられる一首だと思いました。
未訳ということは主体にとっては恐らく読み解くことが難しい本ですね。
ペーパーバックは、紙製の表紙を用いた本のことです。 ボール紙に布や紙が巻かれた表紙の「ハードカバー」に対して「ソフトカバー」と呼ばれることも多いそうです。
ハードカバーに比べたら安価で手にしやすいけれど、主体にとっては読み取ることができない本。
それが「君」なのだそうです。
他人を理解する事は難しい。
同じ言語を話していても、考え方や習慣の違いで話がすれ違うこともしばしばです。
主体にとって「君」は、他の言語で書かれたペーパーバックのような距離感の相手なのでしょう。
目をほそめるは、顔中にほほえみを浮かべる事。
理解できなくても、手に取る事ができただけで、「何も言えずに目をほそめて」しまう主体。
「君」の存在をただただ受け入れている景を思い浮かべました。
穂村弘の『短歌の友人』で紹介されていて、とても好きになった一首です。
「きっときみが」は初句6音ですが、魅力的な始まりだと思います。
初句で一気に歌に惹き込まれます。
きみがいなくなることでようやく主体は気づきます。
きみがどれだけ大事な存在だったか。
気づいたところでもう手遅れなのでしょう。
主体の「まぶた」は失われたまま、「海岸線に降りだす小雨」を呆然と眺めています。
「小雨」は主体の涙なのではないかと思いました。
瞬きもできず、ぬぐうこともせず、ただただ流れていく涙。
悲痛で美しい一首だと思いました。