晴れた雨の日
駅を歩いている。バスターミナルのベンチの前で弾き語りをしている男の人を通りすぎる。和菓子屋の前でおまんじゅうを食べている小さなおじいさんを通りすぎる。駅にはいろんな人がいて、でも彼らのことを理解するには圧倒的に時間が足りないし、今の私は飽和状態だ。1歩進むごとに、体の細胞が1つずつ無に還っていくような感覚があって、私はそれに気づかないふりをして、平気な顔をしてずんずん歩く。歩いているうちに足元がぬかるんできて、あ、違う、ぬかるんでるんじゃない、これは水だ、ここは海だ、
今海にいるよ、ぼく。
電車の青い座席には、今日も色とりどりの魚たち。赤いスニーカーやデニムを履いた足が、等間隔に並んでいる。この海のなかにいる間は、使い物にならない下半身。委ねることを選んだから、自分では何にもできやしない。ホームに降り立った瞬間から自由になって、それぞれの行き先へと動き出す。まるで足を得た人魚姫のよう。その足が歩くのは幸せな一瞬か、息苦しさの最中か、それは誰にもわからない(おかげではた迷惑だ、でも助かってもいる)。どこにでも行けることは、何でもできることととても似ている。でもイコールじゃないことを、忘れかけてはいけない。たぶん人はいつかなにもできない瞬間に出くわす。私って何もできないじゃん。そう言うことしかできない瞬間が、それぞれにある。無力であることをあらかじめ知っておけば、それに嘆かずにすむ。
人間は時々、どうしようもない強さをもっているような錯覚にかられるということを最近知った。そういう人はすぐわかる。話す言葉がいつもより乱雑になったり、悲しそうに強がったりするのだ。目が泳いだり。思えばこれまで、そういう人をたくさん見てきた。彼らはごまかせていると思っているのだろうか。まあ、かくいう私も、自分がどう見えているのかなんて、こわくて思い描きたくもないけれど。
おばあさんが被っているバケットハットについているハート形のアップリケにちょっとふれたくなる。おばあさんの手首には、水色の天然石でできたブレスレットがつけられていて、それがビーズでできた子供用のおもちゃに見えたとき、なぜかどうしようもなく悲しかった。
魔法瓶に口をつけて、生姜のお茶を流し込む。生姜は喉にぴりりと染みて、それでいてどこか甘く感じた。お砂糖なんて入れていないのに。
本を読むことが好きで、本を読んでばかりいて、いつもひとりだった。そんな時に、目をそらすために信じたこと、思い込もうとしていたことがある。それは、ああ私いま、この町にいない、この本の中にいる、と思うこと。そう信じているときの私は、いつもより少し焦点の合わない目をしていて、いつもより少し顎をあげている。
電車がホームに到着するというアナウンスがさっきから流れていた。読みかけの本を読み終えたのに、ラストに受けた不思議なショックのせいで、余韻の浸り方を忘れてしまっている。私はほとんど亡霊みたいに歩いて、人々の列に並ぶ。振り返ったら、さっきまで座っていた椅子は全然別の、知らない次元の物に思えた。到底到達できない、違う世界の駅の椅子。そこにさっきまで座っていた私のぬくもりが残っているか疑い始めて、「開ける」ボタンが赤く点灯するまでの数秒間、私はその次元のことを考えていた。
私はいま、多目的トイレの前で迎えの車を待っている。雨でもふらないかな。そんなことを考えながら。
自動販売機の前には高校1年生っぽい男の子たちが陣どっていて、さっきからわざとみたいな、つくりものみたいな笑い声を3人おそろいであげている。
電車が、今立っている地面の下をごうごうと走っているなんておもしろい。すがたかたちは全く見えず、でも走っていて、たくさんの人が乗っていて、みんなどこかへ出かけあるいは帰ってゆく。真っ暗な窓に自分の顔がうつって、隣の人の顔もその隣の人の顔もみんなみんなうつって、ときどき光がそれをかすめる。地下鉄っていつも夜みたいだ。
長い長いエスカレーターに黙って大勢が乗せられていて、みんな何かにじっと耐えている感じで、儀式っぽくていい町だった。道にはごみが散乱していて、でっぷり太った人馴れした鳩が道を横切った。都会に出てきた田舎者の私よりはるかに堂々たる彼らは、感情のない目で世界を見ている。いい町だった。