鞄に入っている本を読み終えると、不安になる。 本を読むことは逃避行に似ている。読んでいるあいだは、どこかにいられる(ここじゃないどこか)。居場所をもらえるし、それを動かしてもいい。いわば切符みたいなものである。これに乗っていきなさい、と鞄のなかから声がする。まあどっちでもいいけどさ、読みたいなら、どうぞ。それに「はい」とこたえて私。栞のページに手を差し込んで、記憶と文字をリンクさせる。そうそう、そうだった、ここまで来たんだった。記憶の途中下車、途中乗車をゆるしてくれる本は、
ちょっと早起きをした朝だった。というのも昨夜寝落ちしたからで、今は朝の5時半だった。8時までのごみ捨ても余裕で行けるぜ~とのんきにごろごろしていたが、ちょっと待った、空がきれい、朝焼けだった。カメラを取り出してぱしゃぱしゃとやる。太陽を反射してみずみずしく光る向こうのビルが鮮やかだった。朝の空気はいつも、清潔にしずかだ。定められているみたいに。そうあるべきみたいに。 劇と展示の企画「手のひら共和国」が終わった。長いのか短いのか、生活にしてはずいぶん長く、製作にしてはずいぶん
劇団ロロの「飽きてから」千秋楽を観てきました。とても素晴らしかった、感情フル稼働でした。きちんとした感想をまとめたかったのだけれどそれどころでない気持ちの状態なので、帰り道に書きなぐったものそのまま、調理前の新鮮な感想です。 …もはや感想ではないのかもしれない。 すごくどうしたらいいのか分からないきもち。いつもはもらって帰るし、気づいて、受け取って帰っていた帰り道が、失ったような、失うような、予感みたいな、心もとなさで、ロロでそんな気持ちになるなんて思ってもみなく体に力が入
小学1年生からお芝居や表現を続けてきた中で、かなわないなあ、と思った人が1人だけいる。素敵だなあと思う人はたくさんいる。すごいなあと思う人もたくさんいる。でも、「かなわないなあ」が似合うのは私にとって1人だけだ。 すごく素敵なお芝居をする子だった。顔立ちとか雰囲気とか、もともと持っているディテールも素敵な上に、ひっそりちいさなものを積み上げて、どでかい魂みたいなものを作り出せる子だった。別に華やかなわけじゃない。だけど、繊細なたくましさみたいな、泥くさい美しさみたいな、かっ
大学2年生19歳。 現在、ふたつ上の姉とふたり暮らしをしている。 6人きょうだいの上ふたり。1年前、上京したての私にとってその安心感は本当にありがたく、もし姉がいなかったら、と考えただけでもおそろしい。姉がいてくれてよかったと思う。 ふたり暮らし。 洗濯物も、料理も2人前。8人前だった暮らしからはずいぶん減ったが、1人前とはやっぱり違う。安心感も、気遣いかたも、慣れたようでどこか探り探り。ふたりで暮らすということは、ご飯も2合炊くし、ハンガーも2倍必要ということだ。電気代も
晴れた日の夕方。 思い立って、梅シロップとしそシロップを作った。 岩手にいた頃は、庭でとれた梅としそを使って毎年作っていた。梅酒も梅干しも手づくりしていて、床下収納には去年作ったものも残っていたりして、保存食やら手づくり調味料やらを作りがちな母に姉が「これいつの?」と聞くみたいな、そんな台所だった。 干している最中のあたたかい梅干しがいちばん美味しかったこと。小屋に吊るされた干し柿。クッキー型がたくさん入った錆びた缶。染めもの用に集めている玉ねぎの皮。誕生日のたび嬉々として
うまれる前 ラジオが友だちだったころ わたしは風とはなしができた デパートの屋上メリーゴーランド いつかのほんとう今日の通せんぼ まっ白にくもっためがねの向こう側 にせものの霧がたちこめている 12時のプールのあとのぬれた髪 青いくちびる もやしのナムル たったひとつのほんとうなんてないというたったひとつのほんとうがある
ストレンジシード静岡が気になって、ひとりで静岡に出かけた。県をまたぐひとり旅は2回目だ(思えば前回も観劇のためだった)。在来線を乗り継いで、片道4時間ことこと電車に揺られていった。自他共に認める地理の弱さ、人見知りかつ迷子常習犯なので、ひとりで知らない場所に出かけることのハードルはすごく高い。でも今回は、行かなきゃ後悔する気がする、という根拠のない予感のもと、お財布に謝りながら行くことを決めた。 静岡駅に降り立ったときから(いや、道中からか)、無防備な安心感と居心地のよさが
春だから それを理由にすることにためらわないからもう春なんだ 風とワンピース 通りすがりの赤ちゃんと不思議な目の合い方をする 口笛を吹きたいようなくちびるを春の空気がすりぬけていく 身ひとつでことばをさがす旅に出る 迷路のなかで今日の春風 春の女の子春のくちぶえ春のうみ「春の」が形容詞になりかける春
昨日、テディベアがインフルエンザから戻ってきた。見ない間にちょっと痩せていたけれど、すごく背が高くなっていた。「一皮むけたねえ」と言った丘枝先生、あなたやっぱり変わっているよ。でもわかる、正直わたしにもそう見えた。 夫と朝ごはんを食べようとしたら、電話がかかってきたのでわたしが出た。聞き覚えのない声だった。 「春の七草の選択のことなのだけれど、」 「…え?」 「せりなずな、ごきょうはこべらすすきのざ、すずな、すずしろ、これぞ七草」 「ああ、七草粥、」 「たんぽぽは入
駅を歩いている。バスターミナルのベンチの前で弾き語りをしている男の人を通りすぎる。和菓子屋の前でおまんじゅうを食べている小さなおじいさんを通りすぎる。駅にはいろんな人がいて、でも彼らのことを理解するには圧倒的に時間が足りないし、今の私は飽和状態だ。1歩進むごとに、体の細胞が1つずつ無に還っていくような感覚があって、私はそれに気づかないふりをして、平気な顔をしてずんずん歩く。歩いているうちに足元がぬかるんできて、あ、違う、ぬかるんでるんじゃない、これは水だ、ここは海だ、 今海
生きてたら傷つかないといけないのだけど死んだら傷つけるのよ 通りすがりの猫がわたしを見ています、だからわたしは今日も生きてます かくれんぼ見つけなくてごめんでもわかってたとは言いたくなかった Wi-Fiが自動接続されたから「わたしはこことも繋がっている」 またあした笑いながらなきながら涼しい夜をひとりあるくよ
その日は雨が降っていた。雨と霧の境目みたいなささやかな雨。みずたまりの表面をうるうるとゆらすくらいの。 私はバス停でバスを待っていて、時刻表の上に貼られた、今月末で廃止されるバス停のリストを眺めていた。聞いたこともないようなバス停ばかりで、出会いもしないまま、静かに止まっていくものがたくさんあるのだと思った。 体を伸ばすと、思いきり膝が鳴った。さびついている、油をさしてあげなくては、と思った。鳴った、と、思った、がどこか似ている気がして(今思うとどうしてそう思ったんだろうね)
小さいころ、1度だけプリキュアのDVDを観たことがある。青色のプリキュアの子が朝ごはんを食べるシーンだけなぜか鮮明に覚えていて、それは、ダイエット中だからと言って(「朝は多めに、昼夜は少なめに」)お母さんの分の食パンまで食べてしまうのだ(「ママの分は?」「ない」)。どうしてそのシーンばかり覚えているのかわからないが、おかしなことだが私にとってプリキュアといえばそれなのだった。 幼稚園でのプリキュアごっこでは、青色のクールなあの子に憧れながら(だってみんなが彼女をやりたがった
はじめてサニーデイ・サービスのライブに行った。 ライブに行くこと自体はじめて、熱狂的に盛り上がるのもあまり得意なタイプではなく、もしかして場違いでは、とちょっとどきどきしていたけれど、安心して好きなように居ていいんだと思える素敵な空間だった。客層も幅広く、半分踊っているような人や、完全に踊っている人や、黙ってまっすぐ見ている人や、目をつむっている人や、いろんな人がいて、それを見ているのも面白かった。同じ歌を好きな人たちが、ただただそれを浴びている時間。みんな幸せそうで、すき間
わたしは絵を描くのがすきな子どもで、絵を描きながらお話をつくるのがすきな子どもだった。絵を描くのとお話をつくるのとそれを口に出すのと、すべて同時進行で、喋りながら絵を描いていた。中でも当時お気に入りだったのが、きのこの家に住む女の子の話だ。彼女は、毒きのこ代表みたいな、赤に白の斑点もようのきのこの家で、ちいさなドラゴンと暮らしている。ドラゴンなんだけど、飛んでるシーンを描いたことは1度もなくて、女の子を乗せて飛んだりもしなくて、むしろ女の子が台車に乗せて散歩に連れていくのだ。