花束でくぎりがつけられる日々
劇団ロロの「飽きてから」千秋楽を観てきました。とても素晴らしかった、感情フル稼働でした。きちんとした感想をまとめたかったのだけれどそれどころでない気持ちの状態なので、帰り道に書きなぐったものそのまま、調理前の新鮮な感想です。
…もはや感想ではないのかもしれない。
すごくどうしたらいいのか分からないきもち。いつもはもらって帰るし、気づいて、受け取って帰っていた帰り道が、失ったような、失うような、予感みたいな、心もとなさで、ロロでそんな気持ちになるなんて思ってもみなく体に力が入らずでした。まだ(もう)19年しか(も)生きていない(生きてしまった)ことが幸か不幸か、失うものはどのくらいあるのか、失わないでいられるものはどのくらいあるのか。どんなに過ごしても経ても刻んでも、いつか、忘れちゃうかもしれない、いや、なんなら飽きちゃうかもしれない、なんだっけ、もういいよって、そのいつかがくるってことを、その可能性を、ぽんってはんこでおされてしまった。私はいま砂時計の真ん中のへこみのところにいて、手をお皿にして受け止めようとするんだけれど何も受け止められなくて、少しだけ積もる分はあるんだけど、積もることでこぼれ落ちたりもして。人ははなれていくことがあるし、分かりあえないことがあるし、気づけないことがある。駅の車内広告で見る親子の絵顔が、っていうか笑顔って打ってなんで絵顔って変換に出るの、なんかそれがまずもうこわくて(なんでやねんっていう変換でいつもなら笑えるのに)、ジュースを飲んでいる自分の子どもの写真をこわいくらいにっこりしながら(子どもは笑っていなくて)撮っているちちおやもこわくて、でもじゃあそうじゃなくて、自転車に子どものせて見るからに送り迎えしてる父親ならいいのかよっていうとあの、そういうことを、そういうことを言いたいんじゃなくて。でも、どうしようぜんぶこわくて、どうしよう。これまでのやさしさうそだったよっていわれた訳じゃなくて、つまり、裏切られた訳じゃなくて、安全な場所がそうでなくなったわけでもなくて、飽きちゃったよっていわれたってことで、ただ、それだけのことだ。それっぽっちに見えるでしょ、でもそれはこわくてざんこくでじゆうだということで、人生ということだ。飽きちゃった。帰るね(あるいは、帰らないね)。でいい、人生。こわい。たぶんこわいというのはやさしいということで、やさしいということはさびしいということで、つまり私は、無性に寂しくなったんだと思います。人が人生で寄りかかれる人って、思っているよりずっと少ない。たとえば、今こうして帰り道で、スクランブル交差点を歩く私のまわりにはありえないくらい人がいる。でもその誰も私を知らなくて、私も知らなくて、寄りかかることなんてできやしなくて。わたしいまさ、こわいんだけど!なんて叫べない。泣きたくても、胸を貸してくれる人はいない。ずんずんとむんむんと歩くひとりの私を思い浮かべる。たくさんの人とすれちがいながら、ひとりで、泣きながら。だけど実際起こったことは、観劇後に知り合いの方を見つけて話しかけたら覚えていてくれて、その人は自転車で、でも駅まで送っていくと言ってくださって、感想をお話しながら一緒に歩いて、途中スコールが襲ってきて、私は傘を持っていてさしかけて、そしたらその人が傘を持ってくれて、歩いて、笑って。なんかそのくらいに世界はたまーにやさしかったりもして(やさしいのは世界じゃなく、その人です)、だから足が地面についているなと、そう思う。訣別とか感謝とか弔いとか愛とか、いろんな節目や区切りに人は花束を送る。終われるし、変えれるし、帰れる。いつでも花束でくぎりがつけられる日々がこわくて脆くて愛おしいです。
ありがとうございました。