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「かなわないなあ」のこと
小学1年生からお芝居や表現を続けてきた中で、かなわないなあ、と思った人が1人だけいる。素敵だなあと思う人はたくさんいる。すごいなあと思う人もたくさんいる。でも、「かなわないなあ」が似合うのは私にとって1人だけだ。
すごく素敵なお芝居をする子だった。顔立ちとか雰囲気とか、もともと持っているディテールも素敵な上に、ひっそりちいさなものを積み上げて、どでかい魂みたいなものを作り出せる子だった。別に華やかなわけじゃない。だけど、繊細なたくましさみたいな、泥くさい美しさみたいな、かっこよくてかわいくて、特別なことをしてみせるわけじゃないのになんか惹かれる、そんな子だった。
私は昔からくるくる頭で考えすぎて、からだがそれに追いつかない。頭のなかだけ先走る。「きれいに泣くな!」と怒鳴られたこともある。「お行儀がよすぎる」「おもしろくない」「優等生」「頭はいいんだろうね」「すぐ結論づけてしまう、言葉にできてしまう。で、それに安心する傾向があるよね」。あちこちでもらう言葉はどれもその通りで、図星過ぎて抜け出せなくなる。現に今も私は、こういうとこだよなあ、と思いながらも、言葉にしてしまっている。しようとしてしまっている。言葉にできることは弱さかもしれない。好きだけど、たまに枷だ。
そんな、言葉にとらわれた私だからこそ、あの子への「かなわないなあ」に向けて言葉を紡げたら、なにかひとつ区切りがつけられるんじゃないか。「かなわないなあ(=あんな風になれたらよかった)」から、自分のなかの理想像から、自由になれるんじゃないか。目には目を、言葉には言葉を。そう思って最後に、自分のためにこれを書いてみている。
恋じゃないけど、恋みたいなものだったのかもしれない、と思う。眩しくて羨ましくて、(かなわないなあ、あんな風にはなれないや、だからせめて)ずっと見ていたかった。時間は流れてあの子はお芝居をやめ、私はかっこわるくお芝居のことばっかり考え続ける19歳になった。
あの子が今どこで何をしているのか、私はあんまりよく知らない。どうか、どこかで笑っていてくれたらいい。
私はまだ、お芝居をしているよ。