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まえとあと、なかとそと

鞄に入っている本を読み終えると、不安になる。

本を読むことは逃避行に似ている。読んでいるあいだは、どこかにいられる(ここじゃないどこか)。居場所をもらえるし、それを動かしてもいい。いわば切符みたいなものである。これに乗っていきなさい、と鞄のなかから声がする。まあどっちでもいいけどさ、読みたいなら、どうぞ。それに「はい」とこたえて私。栞のページに手を差し込んで、記憶と文字をリンクさせる。そうそう、そうだった、ここまで来たんだった。記憶の途中下車、途中乗車をゆるしてくれる本は、寛容だ。誰かの記憶を途中から乗っ取り、それを乗っ取った自分の記憶を思い出す。

あとになって気づいたのだが、読み終えて不安になる現象は、上京してから増えた気がする。それまで読んでいたのがどんなにふしぎな本や理解できない本だったとしても、私にとって、都会の喧騒よりははるかに歩み寄れる、とおもっているのかもしれない。田舎の列車での読後感は、だってなかなかに風情があった。人のいないベンチ、発車の合図。迎えを待つ男子高生のおそろいの笑い声。駅のコンビニの、早い時間におろされるシャッター。なかなか来ない迎えの車と、そっけない駅前。しろいため息。

いずれにせよ、本を読み終わるとちょっと状態が変わる。うまく言えないが、「世界」だった本を受け止め終えて(私のなかのものになり)、それが「物体」になったとたん、心もとなくなるのは確かなのだ。都会にいつまでも馴染めない私は、本のなかの「世界」がなくなってしまうと、ここにはすがれるものがなにもなかった。

たまに、目的地に着くのにまだだいぶ時間があるタイミングでふと、本を読み終わってしまうことがある。そんなとき、とたんに不安になる。

結局のところ、家で読み終わりたいのかもしれないなあ、とも思うけれど、電車のなかとか駅のベンチとか、そういう場所で読み終わるのもきらいじゃない。不安ではあるが、シチュエーションによってはむしろ好きだったりもする。終わった、すとん、本を閉じます。ちょっと淡白に、ちょっとさみしく。頭のなかは余韻でいっぱいか、あるいはからっぽか。五感がそれぞれ別の場所ではたらいている気がする。ひとつの世界との対峙がおわり、私は座ったままか、立ったままか、とにかくかたちを変えずにそこにいる。着くのとか、来るのとか、待ちながら。

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