母語の才能、わかりやすい日本語。
9 異国の人たちと話す日本語について。
6月はフランス人と中国人カップルのホームパーティーに終電過ぎまでいて、7月は台湾人ファミリーの新築祝いにお邪魔して刺激を受け、日本にいながら、なぜか自分が唯一の日本人で、わたしがいるためにみんなが日本語で話してくれるという謎の時間を過ごしていた。そういえば、昨夜もまた別のフランス人と夕食をともにしたのだけれど、話したのは日本語だけだった。もっと言うと、先々週はアメリカ人と日本語で、アメリカの警察事情について話していた。そう、わたしは異国の人と日本語で話すことに慣れている。
留学をしたこともなければ、高校や大学で国際関係の学部に在籍していたわけでもないのにこうなったのは、おそらく16歳でヴィンセントに出会ったからだと思う。メキシコ人の彼は、わたしが進学した県立高校(1学年に300人ほどが在籍)にただ1人いた留学生という、いま思えば希少な存在で、たまたまクラスが同じというだけのめぐり合わせだった。
そもそもヴィンセントは肌の色が日本人のそれと違っていたし、胸の厚さは一般的な高校生の倍くらいあるように見えたから、男性陣にも「普通に怖い」と恐れられ、その姿にみんなが見慣れるまでは2ヶ月くらいかかったと思う。しかし、なぜかわたしははじめから「異国の地に来て、よくわからない言葉しか聞こえてこないのでは、さぞ心細いだろう」という気持ちでいっぱいで、ことあるごとにヴィンセントに話しかけていた。うまく言えないけれど、なんとなく、わたしが話しかけないといけないような気がしていた。
とはいえ高校受験のために勉強した英語しか知らなかったから、はじめのうちは身振り手振りでなんとか伝えることもあれば、日本語とメキシコ語の単語を教え合いつつ意思疎通をするという感じで、辞書を片手に話していることもよくあった。そんなある日、ふとヴィンセントに言われた言葉が、いまでも胸に残っている。
「アヤトの日本語は、わかりやすい」
もう20年以上も前のことになるけれど、へえ、と思った。「わかりやすい日本語」の対義語が「わかりにくい日本語」だとしたら、わたしには異国の言語学習者と日本語で話す才能があるのかもしれなかった。でも、「日本語(母語)の才能」ってなんだろう。「外国語を話す才能」ならわかるけど。いや、これは才能うんぬんの話ではなくて、単に意志の問題である。
あらためて言うようなことでもないけれど、異国の人と話す母語は、母語でありながら、いささかの不自由さをともなって発せられるものだとわたしは思う。相手の理解度によって使う単語を選び、ときに同じ言葉を繰り返したり言い換えたりして、なんとかして伝えようとする心が求められる。
より具体的に言うなら、まず最も重要なこと(結論や行動や気持ちなど)を先に理解してもらってから理由を述べ、難しい言い回しは避ける。また和製英語を使うときは、その意味が英語のそれと同じか確認したいところだし、速度も加減する必要がある。より高度なことを言えば、互いの宗教や文化の違いによる解釈の可能性も知らないと、話が思わぬ方向にいってしまうこともある。わたしも全部できるわけではないけれど、わりと頭を使いながら日本語を話しているつもりだ。
夫のジョンは先週、歯が痛くなり、わたしにこう言った。
「明日、歯医者さんに行って、僕なんて言えばいい?」
「『歯が痛いです』って、言えばいいんじゃないの?」
「ううん、歯医者さんは、擬音語で聞いてきます」
そう言われて思い出したのが、前回彼が歯医者さんに行ったとき、「なにを言われているのか、まったくわからなかったです」と言って、しょんぼり帰ってきたことだった(たぶん、ジョンはまだ「しょんぼり」も知らない)。
ここで歯医者さんが使う擬音語を少し想像してみると、「ちょっとチクチクしますよ」とか、「ズキズキした痛みですか。それとも、ジンジンですか」といったところだけれど、そこでは擬音語に限らず、「あーん、してください」とか「いーっとしてください」とか、歯医者さんでしか使わないような言い回しを連発してくるはずである。
そこでわたしは、ジョンにこう聞いた。
「歯の奥から痛い? それとも、歯の表面が痛い?」
すると、
「歯の奥から。はじめは結構痛くて、徐々に痛いのが短くなって、15分くらいで痛くなくなる。でも2時間くらいでまた痛くなる」
なるほど、それならこのまま言えばいいのではと思うけれど、そうもいかない。ジョンは擬音語を連発してくる歯医者さんに不安を覚えるのだ。そして、よくわからないまま、されるままでいるしかないのがつらいのである。そこでわたしはスマホで以下のように打ち、「たぶん、こう言えばジョンの痛みが伝わると思う」と言いながらジョンに送信した。
「はじめはズーンとして、その後ズキズキして、断続的な痛みがあります」
ジョンはこれを声に出して読むと「ありがとう!」と嬉しそうに言って、カレンダーにこう書いた。
「18:00〜 お歯医者」
「歯医者さんに『お』は付けないの」とわたし。
「でも、『医者さん』は違うって、この前言ったよね」とジョン。
日本語は理不尽なほど複雑で、こまかな話をしているとキリがない。それでもわたしたちは、あきらめずにやりとりを続けて、ここまで来ている。
10 解雇されたときのご挨拶。
「お歯医者」で思い出したのが、「お元気で」のことなのだから、我ながらしつこいと思う。でも、いい話なんだ、一周まわれば。
もう4年くらい前のことになるけれど、ジョンはコロナ禍のあおりを受けて、7年ほど勤めていたアメリカ系企業でとつぜん解雇された。彼はその会社の商品や文化をとても気に入っていて、役員陣との会話もよくしていたので、わたしも耳を疑ったほどの出来事だった。でもジョンは「会社を存続させるために僕が辞めなくてはいけないのなら、仕方がないと思います」と言い、最終日を過ぎても残処理を手伝っていた。
そして「業務に関係のない部分ですので、アヤトに見せても大丈夫だと思います」と言って、会社に残る日本人宛に送った別れのメールを見せてくれた。それが少し長めの文章になったのは台湾支社の創業時から務め、思い出深いエピソードがたくさんあったからで、わたしもちょっと涙を浮かべながら読み進めていた。でも……結びの言葉を読んだとき、目が泳いで、笑いが込み上げてしまったわたしは、修行が足りないと思う。
「それでは、お元気です」
もちろん本人は大真面目に書いていて、「お元気で」で終われば良かったところを「お元気です」としたのは敬語にしようとしてのことだということも察しがつく。しかし末尾に「す」がついたことで、「辞められて、せいせいするぜ」みたいなニュアンスになっているという現実はどうしたらいいのか。おそらく、このメールを受け取った日本人の同僚たちは目に涙を浮かべながら読んでいたものの、最後、笑ったはずである。そして「いつかまたジョンに会いたいな」と話したことだろう。
さて。わたしは問題の一文について、ジョンに伝えるべきか、それとも黙っておくべきか迷っていた。メールの99パーセントは感動的な内容で、会社の方々も困るようなミスではなく、重箱の隅をつつくような、本筋以外の問題である。そもそも長年勤めた会社を解雇されて、本来ならもらえるはずだった退職金の類も辞退し、それでも感謝の言葉を述べているわけなので、わたしがとやかく発言するところではないとも思う。
しかし一方でジョンは日頃から「日本語を正しく話せるようになりたい」と言っているので、それを裏切るわけにもいかない。また、この結びの言葉(「お元気で」)は今後もどこかで使う可能性が高い。あれこれ考えた末に、わたしは長期的な視点から、やはりこの問題について伝えることにした。ただ、日本語だけで訂正するのも難しいニュアンスの話だったので、英語を交えながら話すことにした。
「とても感動的な内容だったよ。見せてくれてありがとう。ただ、最後の一文については少しだけ問題があって……『それでは、お元気です』だと、『Good bye, I am so good!』になってしまうので、『Please take care.』と伝えたい場合は、『お元気で』と『で』で終わらせないといけないの」
するとジョンはいつもの調子で「なるほど。教えてくれてありがとうございます」と感じよく言った。でも、その後わたしは「それでは、お元気です」で終わったメールがやはり最適解だったのではないか……と長いこと考えていた。
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