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運河についての雑学④ 夢を継ぐ者
前回の記事から随分間が空いてしまいました。
https://note.com/mokosamurai/n/nf73b8db6ffda
以前の記事はこちらです。
では、スエズ運河を建設しようとして勘違い(というより調査間違い)から断念したナポレオン、そしてその夢を引き継いだのがレセップスであることに触れました。
今回は、いよいよ今あるスエズ運河の建設について書いていきます。
1,その男、名家の生まれにて
フェルディナン・ド・レセップス。この人物が何故、歴史上の王たちが挑んだ事業に挑戦することができたのか。
時代は近代。王侯貴族の文化も未だ色濃く残るこの時代に、一大事業を成し遂げるには「血」も重要な要素でした。
レセップスは1805年、フランスのヴェルサイユで生まれました。
レセップスの血筋を見ると、父方はフランス政府の高官(外交官)であり、ウジェニー・ド・モンティジョ
のいとこにあたります。
ウジェニー・ド・モンティジョは、ナポレオン三世の皇后となった人物。伝統あるスペイン貴族の出身です。
つまり、レセップスはスペイン貴族、そしてフランス高級官僚の血筋を受け継ぐ人物だったということですね。
この血筋は、レセップスがスエズ運河に挑む際に大いに役立ちます。
また、外交官の息子であったことから、幼いころから外国を飛び回る生活を送ります。その環境は、彼に物怖じしない不屈の精神を与えたようです。
乗馬と射撃の腕に優れ、中学校を卒業すると自分で学費を稼ぎながら学業を続ける(家庭が困窮していたわけではなく、両親に負担をかけまいという動機で)など、一本筋が通った少年時代を過ごします。
2,レセップス、外交官になる
彼の外交官デビューは1825年(20歳の時)。任地はスペインのリスボンでした。
そして1833年、エジプトのアレクサンドリア副領事としてエジプトに赴きます。このエジプトでの出会いが、彼の人生を変えることになります。
アレクサンドリア到着時、彼の乗船の中にコレラ感染者と思われる死者が出てしまいます。
当時、コレラは最も恐れられた感染症の一つ。しかも2回目のパンデミックのただ中であり、ワクチンの開発(1860年実用化)以前でした。
レセップスを含む乗員は、否応なく検疫所に隔離されることになります。
イレギュラーでの収容ですので、レセップスにはすることがありません。そんな中、検疫所を上司であるミモオ領事が訪れます。
実はミモオ領事はレセップスの父と共に働いた仲であり、息子であるレセップスの事を気にかけていたのです。
ミモオ領事は、レセップスに勉強のためにと、何冊かの本を手渡しました。その中でレセップスの目に留まったのは…そう、ナポレオンのエジプト遠征に同行した調査団がまとめた『エジプト誌』だったのです。
そしてその中に、Jean-Baptiste Lepère(ジャン・バチスト・ルペール)が書いた、紅海と地中海の運河建設の可能性についての報告がありました。
これらの報告書をレセップスは読み漁ります。この書物との出会いが、後に彼をスエズ運河建設へと導くことになります。
3,誠実な外交官
外交官としてのレセップスは、非常に優秀で誠実でした。
当時のエジプト太守ムハンマド・アリー・パシャ
といち早く信頼関係を築くことに成功します(ムハンマド・アリー・パシャも元々、レセップスの父とも関わりがあった人物)。
赴任の翌年、アレクサンドリアでペストの大流行が発生した際にも、領事館を病院として開放し、各地を回って医師たちと共に患者への対応の最前線に立ち続けました。
その姿を見たアレクサンドリアの住民はレセップスに絶大な信頼を寄せるようになり、ムハンマド・アリー・パシャも彼に全幅の信頼を寄せるようになります。
アレクサンドリアを馬で颯爽と走るレセップスの姿は、アレクサンドリア住民の羨望の的となりました。
4,ある少年との出会い
そんなある日、ムハンマド・アリー・パシャは、レセップスを呼び、丸々と太った少年に引き合わせます。
そして、「この少年に乗馬を教えてほしい。彼はダイエットをする必要があるのだ。」と頼んだのです。
その少年の名はサイード・パシャ。
ムハンマド・アリー・パシャの末っ子でした。
彼こそ、後にエジプト、ムハンマド・アリー朝の第4代君主
として、レセップスの運河建設を後押しする人物です。
レセップスは1834年~37年の4年間に渡り、サイードに乗馬だけではなく、フェンシングなどのスポーツ、さらに西洋料理まで教えます。
更に、厳しい父に怒られることも多かったサイード少年の話し相手として、家庭教師と生徒以上の信頼関係を育むことになります。
5,失意のレセップス。しかし…
アレクサンドリアの任期を終えパリに戻ったレセップスに、当時のフランスのリーダー、ルイ・ナポレオン(後のナポレオン三世)
から新たな任務が言い渡されます。
それは、対立するイタリアとの和平交渉でした。
誠実にその職を遂行したレセップスですが、その努力もむなしく、イタリアとフランスは戦争状態に陥ってしまいます。
フランスの外交政策に失望したレセップスは外交官を辞め、妻の実家の農場で農民としての生活をスタートさせるのです。
農園の運営に忙殺されるレセップス。
しかし、彼の脳裏にはずっとひとつの炎がくすぶっていました。
それが、アレクサンドリア赴任時に読んだ、運河開削に関する報告書。
既に外洋を快速で航行できる蒸気船
の時代が到来し船の移動速度は向上したとはいえ、まだまだヨーロッパ・アジア間の航路はアフリカ最南端、喜望峰経由の危険で不便なものでした。
スエズ運河が開通すれば移動時間も短縮でき、アジアへの航路は遥かに安全なものになります。
さらに、彼が愛したエジプトを通行料収入で豊かにするかもしれないこの運河の開削は、やはり彼にとって成し遂げたい夢であり続けました。
そんな彼に、1854年、大きな転機が訪れるのです。
というわけで、次回はいよいよ、レセップスがスエズ運河建設のために動き出します。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
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