無欲恬淡の大番頭
7月24日は、明治~大正時代にかけて存在した巨大商社、「鈴木商店」の大番頭と言われた金子直吉
の生誕日です。
1、極貧からのスタート
金子直吉は、慶応2年6月13日(1866年7月24日)、土佐(高知県)の呉服反物商の家に生まれました。
しかし、明治維新に伴う社会の変化についていけなかった実家の事業は破綻。幼くして長屋住まい、紙屑拾いという極貧生活に転落します。
彼は、学校にも行くことはなく、高知市内の商家に丁稚奉公に出されることになりました。
2、奉公先での出会い
彼はいくつかの奉公先を転々とするうちに、ある奉公先と出会います。
それは傍士久万次(ほうじくまじ)が経営する質店。
そこで直吉は、質草として店にあった様々な書籍を読み漁り、膨大な知識を蓄えていきます。
(本人は後にこのことを「質屋大学」と呼んでいます)
さらに、主人である久万次が裁判沙汰に巻き込まれると、何と彼は主人のために訴訟に立ち、相手方の著名な弁護士を相手に勝訴します。
類稀な才覚を持つ直吉は、久万次の信頼を得るようになりました。
3、直吉、神戸へ
傍士久万次は、商売として質店より砂糖商が儲かると考え、業態を砂糖商に変更します。
そして、そのことが直吉にとって大きな運命の転換点となりました。
1886(明治9)年、直吉が20歳の時、久万次は直吉をある人物と引き合わせました。
それは柳田富士松。
神戸の砂糖を中心に商う貿易商、鈴木商店に勤める人物でした。
直吉の才覚を見込んだ久万次は、直吉を鈴木商店に勤めさせることにしたのです。
こうして直吉は、海外貿易の最前線、神戸に移住することになります。
4、居留地での交易
金子直吉が神戸に移住した当時は、日本にはまだ関税自主権(関税を自国だけで決定する権利)がありませんでした。
江戸幕府が各国と結んだ不平等条約がその原因です。
当時、日本と外国の力関係の差は歴然。日本の貿易商たちは、外国商人の横暴に苦しんでいました。
この時、若き直吉の胸に、欧米列強への強い対抗意識が芽生えたと言われています。
しかし一方、直吉は、外国商人からの情報収集を怠りませんでした。
その結果彼が目を付けたのが「樟脳」と「石油」でした。
樟脳
特異な芳香のある無色透明の板状結晶。昇華しやすい。水に溶けず、アルコールなどの有機溶媒に溶ける。クスノキの木片を水蒸気蒸留して製する。セルロイドや無煙火薬の製造原料、香料・防虫剤・医薬品などに用いる。
(小学館デジタル大辞泉より)
1882(明治15)年には、日本で初めて輸入石油の共同事業を行うための会社、神戸石油商会を設立。
共同石油タンクを設置するなど、革新的な取り組みを行いました。
こうして、神戸の砂糖商から事業の手を広げた鈴木商店は、明治中期には神戸8大貿易商の一角と言われるまでになります。
5、当主の死を乗り越えて
ところが、そんな中、主人である鈴木岩治郎
が、1894(明治27)年に急逝してしまいます。享年57。
鈴木商店発展のさ中、無念の死でした。
店の大黒柱を失った鈴木商店は混乱し、一時は廃業の提案も出ました。
しかし、岩治郎の妻、よね(米)
はその提案を一蹴、金子直吉と柳田富士松の両番頭に事業を委任、経営を継続することを決断します。
6、活路は台湾にあり
金子直吉は、よねから経営を委任された直後、樟脳の取引で多額の損失を出します。
しかし、よねの直吉に対する信頼は揺るがず、直吉はそのまま番頭として事業に携わっていきます。
(よねは、岩治郎の教育が厳しすぎて高知に逃げ帰った直吉を呼び戻させるなど、かねてから絶対的な信頼を寄せていました。勿論、直吉のよねに対する忠誠も生涯揺るぎませんでした)
直吉はその信頼に応えるため、新たな事業展開を画策します。
樟脳を諦めず、直接、大量に海外から調達する道を探り始めたのです。
そこで目を付けたのが台湾。
日清戦争の結果、日本の植民地となった台湾は、樟脳の一大産地でした。
直吉は、台湾総督府民政長官だった後藤新平
と関係をつくり、台湾の樟脳専売制の確立に尽力、その功績から、台湾樟脳油の販売権を獲得します。
この成功が、鈴木商店の発展、さらに台湾と鈴木商店の深いつながりの礎となっていきます。
7、Buy!Buy!Buy!
さらに、鈴木商店を躍進に導いた出来事があります。
それは1914(大正3)年に始まった第一次世界大戦。
開戦当初産業・海運業界は混乱し、当初は景気が急減速しました。
しかし、開戦の報を受けた金子直吉は、バイヤーたちに直ちに指示しました。
「金が続く限り、物資を買いまくれ!」
周囲が訝しむ中、指示を受けたバイヤーたちは文字通り鋼材、銑鉄、船舶、小麦をはじめとする物資を買いまくりました。
特に、ロンドン支店長の高畑誠一(当時25歳!)
には、
「BUY ANY STEEL,ANY QUANTITY,AT ANY PRICE(鉄と名のつくものは何でも金に糸目をつけず、いくらでも買いまくれ)」
と指示し、膨大な量の鉄を入手。
それを使って大量の船舶を発注します。
(この時、大量の船舶を建造して莫大な利益を得たのが、川崎造船所社長の松方幸次郎。後の「松方コレクション」はこの時の利益をもとに収集されています)
そして、直吉の読みは的中。
戦争の拡大を受けてあらゆる物資の価格が急騰、鈴木商店はその転売で莫大な利益をあげることになるのです。
ちなみに高畑は、買いまくった食料を、建造した船ごと売り渡す「一船売り」という、当時の商習慣からは考えられない売却方法で莫大な量の小麦をイギリスに売却。
当時のスエズ運河を航行する輸送船の1割は鈴木商店のものだったと言われています。
8、「煙突男」の猛進
鈴木商店というと「貿易商」のイメージが強いですが、実は金子直吉は「製造業」に非常に力を入れた経営者でもありました。
ついたあだ名は「煙突男」。
「生産こそ最も尊い経済活動」という信念の元、貿易で得た利益を製造業に注ぎ込みます。
鉄鋼、造船、石炭、化学、繊維、食品など、あらゆる分野の工場建設にひたすら取り組みます。
さらに「資源が乏しい我が国では、技術開発こそ重要」という信念の元、先進的な研究(セルロイドや人工絹糸など)にも資金投下を惜しみませんでした。
こうして、鈴木商店は貿易や製造業にまたがる巨大財閥として成長していきました。
9、天下三分の宣言書
1917(大正6)年、金子直吉は、ある檄文をロンドンに送りました。
その中で直吉は、ある衝撃的な考えをぶち上げます。
それは後に「天下三分の宣言書」と呼ばれるようになります。
商人として、この大乱の真ん中に生まれ、世界的商業に関係する仕事に従事しえるは無上の光栄。この戦乱の変遷を利用して大儲けをして三井、三菱を圧倒するか、さもなければ、彼らと並んで天下を三分するか、これ、鈴木商店の理想とするところなり。
これがため、寿命を五年や十年早くするもいとわず。おそらく、ドイツ皇帝カイゼルといえども、小生ほど働いていないであろう。この書を書いている心境は日本海海戦における東郷大将の 『皇国の興廃この一戦にあり』 と同じなり。
(一部抜粋)
まさに事業の鬼。
あの三井や三菱を凌駕すると宣言したのです。そして、彼の言葉は現実のものとなります。
この年の鈴木商店の売上高は15億4000万円。三井物産の10億9500万円を大きく引き離し、日本一の座を手にしたのです。
この金額、実は当時の日本のGNPのおよそ1割。
鈴木商店がいかに巨大であったかがうかがえます。
10、急転直下の危機
しかし、鈴木商店を急転直下、大きなトラブルが襲います。
ひとつが1918(大正7)年に発生した「米騒動」。
シベリア出兵が行われることになった影響で、米の価格が暴騰したのです。
その際、何と当時の大阪朝日新聞が、「鈴木商店が米の買い占めで価格暴騰を煽っている」というフェイクニュースを報道。
群衆の怒りは一気に鈴木商店へと向かいます。
その結果、神戸の鈴木商店本社は焼き討ちに会い、全焼することになります。
さらに、第一次世界大戦の終結で、日本は好景気(大戦景気)から一気に不況(戦後恐慌)に陥っていました。
利益を新規事業に再投資することで事業拡大を続けた鈴木商店は、内部留保をあまり持たない会社でした。
また、台湾とのつながりが深かったことから、多くの資金を台湾銀行
から借り入れていました。
さらに、世界的な軍縮の流れで、海軍の艦船調達の多くが中止(ワシントン海軍軍縮条約)となり、造船事業にも深刻なダメージを追うことになります。
業績の悪化する鈴木商店、そして、資産の半分を鈴木商店に貸し出していた台湾銀行、一蓮托生の両者は、戦後恐慌、震災恐慌、そして軍縮と、度重なる状況悪化に耐えかね、力尽きます。
11、鈴木商店の破綻、そして…
巨大財閥、鈴木商店の破綻は、日本のみならず世界的な大激震でした。
その整理は台湾銀行の主導で進められましたが、傘下企業は
・他の財閥による買収
・自主再建
・整理解散
のいずれかの道を歩むことになりました。
現在、鈴木商店の流れをくむ会社は
・神戸製鋼
・昭和シェル石油
・帝人
・IHI
・サッポロビール
などなど…日本を代表する名だたる企業ばかりです。
しかも当時、先進的な製造業ばかり。
これらの企業はその後、現在に至るまで日本の製造業の屋台骨を支えることになります。
つまり、鈴木商店は日本の製造業の基盤を作った財閥である、とも言えるでしょう。
そしてそれは、大番頭金子直吉の力によるところが大きかったのです。
12、無欲恬淡の大番頭
優れた手腕を振るい、鈴木商店を巨大財閥にまで押し上げた金子直吉。
彼はさぞ、多くの報酬をもらっていたのだろう…と思いますよね。
ところが、彼については驚くべきエピソードが伝わっています。
・月給をもらったが、忘れて引き出しに放置
・小切手をもらったことを忘れて放置、期限が過ぎて無効に
・会社のボロ社宅から一度も引っ越しせず
・死後、遺産は10円しかないことが判明
つまり、全く私利私欲のない、無欲恬淡な人物でした。
全ては鈴木商店のため、そして日本の発展のため。
そして、彼は人を見る力、育てる力もずば抜けていました。
鈴木商店で彼に見いだされた者たちは、鈴木商店倒産後、傘下企業の社長など、様々な方面で活躍していきます。
例えば先述の高畑誠一。
彼は「皇帝を商人にしたような男」と呼ばれ、日商(現、双日)の社長としてその力を振るい、双日を日本有数の総合商社に育て上げました。
こちら
を見れば、金子直吉が育て上げた人々、或いは彼の周囲に集った人々がどれ程凄いかは一目瞭然です。
そんな彼に、同時代の人々が向けた眼差しは、彼に対する畏敬に満ちていました。
当時の人々の金子直吉評は…
「我が国におけるナポレオンに比すべき英雄」(福澤桃助(諭吉の婿養子)「土佐の国はわが財界に二大偉人を送った。一は岩崎弥太郎、一は鈴木直吉だ」(同)
「金子は正規の学問こそないが、道理を知るにはよほど明らかで、事業家としては天才的だ」(渋沢栄一)
「もし金子君が米国のような大きな舞台に生まれたならば、カーネギーとロックフェラーとモルガンとを合わせたようなひとが出来上がるだろう」(星一/星製薬創業者)
「今の日本で一騎打ちで金子さんの相手のできる人は絶対にいない」(木村久寿弥太/三菱合資総理事)
また、彼には社員思いな一面もありました。
鈴木商店が経営難に陥った際、役員の間から赤字の工場を閉鎖すべきだという声が出ました。
しかし、工場閉鎖した場合、社員を大量解雇しなければならないことから、直吉は「社員は家族である!」と主張、その方針に断固反対したとされます。
今で言う「日本的経営」の理念も持っていたのですね。
このように無欲恬淡を貫き、会社を富ませ、国を富ませ、人を育て続けた、経営者の鑑とも言える金子直吉。
彼の足跡は今の日本にも色濃く残っています。
色々な人が、今一度、金子直吉の思いに心を巡らせてほしいなぁ…と思ったりする今日この頃です。