今日は地図の日
今日、4月19日は「地図の日」。
ゼンリンさんを始め、多くの地図会社さんがTLに投稿なさると思います。楽しみな一日になりそうです。
しかし、どうやらこの日付け、「城の日(4月6日)」のように語呂で決まったものではなさそうです。
では、なぜ4月19日になったのかについてまとめてみたいと思います。
1、九十九里浜に立つ少年
時は江戸時代後期、延享2(1745)年、上総国(現在の千葉県中部)の九十九里浜近く、その漁村の名主の家に、男児が誕生しました。
彼は「三治郎」と名付けられます。
三治郎は日々、当時さかんに地引網漁
の行われていた浜に立ちました。
しかし彼が見ていたのは海ではなく、空。
夜の浜に立ち、夜空にまたたく無数の星を眺めるうち、彼の関心は空、星、宇宙…つまり天文学に向かっていきます。
しかし、彼が天文学を学ぶことになるのはずっと先のことになってしまいます。その後、18歳で婿養子として下総に移ることになったためです。
その家は、下総国(現在の千葉県・東京都・茨城県にまたがる地域)の造酒家、伊能家。そして彼はその際、大学頭(幕府に仕える学者のトップ)の林鳳谷から「忠敬」の名も授かります。
そう、彼の名は「伊能忠敬」。
あの『大日本沿海輿地全図』を作り上げた地図の大家です。
2、才ある商人、家と民を救う
さて、彼は婿養子として伊能家を継ぎ、30年にわたって商売に励みます。
彼が継いだころの伊能家は商売がうまくいかず、危機的な状況にありました。忠敬には商売の才能があったようで、伊能家を見事に立ち直らせます。
しかし、商売に心血を注ぐ彼に天文学を学ぶ時間などあろうはずもなく…。
彼は商売だけではなく、社会貢献にも熱心でした。
例えば、1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した「天明の大飢饉」
では、私財を投じて救民事業の先頭に立つなど、幕府も一目置く存在だったと言われています。
そんな彼は、50歳になったことを機に息子、景敬に家督を譲り、隠居することを決意します。
周囲は惜しみ、引き留めましたが、彼の意志は固いものでした。
なぜなら、彼はただ「隠居としてのんびり暮らしたい」というわけではなかったのです。
3、齢50にして夢を追い、江戸へ
彼には30年間温め続けた夢がありました。
それは、少年の頃、九十九里浜で芽生えた天文学への関心。江戸で一流の学者に弟子入りし、その天文学を修めることでした。
彼が門を叩いたのは、当時幕府天文方に仕えていた高橋至時。
至時の生まれは大坂の同心の家。天文学とは関係のない家柄です。
しかし彼は、民間天文学者、麻田剛立の弟子として天文学を学んだことから、幕府に天文方の役人として登用されます。
麻田剛立は、ケブラー天文学や中国の天文学をベースに、「時中暦(時中法)」という独自の暦法を編み出し、その精度の高さで名を挙げていました。
天文方に登用された至時の任務は「改暦(暦の改訂)」。
当時の暦(宝暦暦)の精度の悪さが問題になり、その改定は急務でした。
これには高度な天文学や数学の知識が必要なため、天文方では世襲以外に有能な人物を登用することも少なくなかったのです。
4、19歳差の師匠と「推歩先生」
伊能忠敬と髙橋至時の年齢差は19歳(忠敬の方が年上)。
当時では、親子ほどの年齢差です。
しかし、忠敬は至時を師匠と仰ぎ、生涯「先生」と呼び続けます。
忠敬の熱意は並々ならぬもので、日々寸暇を惜しんで勉学に励みます。
そして自宅に設置した天文台で毎日欠かさず天体観測を行い、その詳細な記録をつけ続けました。
そんな忠敬に至時も深い敬意を抱き、忠敬を「推歩先生」と呼ぶようになります。(※推歩とは、「天体観測をする」という意味です。)
19歳差の師弟、その信頼関係はこうして深まっていきます。
さて、当時の天文学者たちにはある重大な関心事がありました。
それは「地球の大きさを知ること」です。
優れた天文学者や数学者達、既にその算出方法のめどはつけていました。
それは、紀元前240年頃、エラストテネス
が行った方法にかなり近いもの。
「同じ経線上の2点間の距離と緯度の差がわかれば、地球の外周はわかるはずだ」という論理でした。
そして、その2点間の距離は、「できるだけ遠く」の2点を「できるだけ正確に」測ることが、正確な外周を出すには必須条件でした。
忠敬と至時は、江戸から蝦夷地までの距離を測ることを検討し始めますが、当時は測量も蝦夷地への渡航も幕府の許可が必要。
許可をもらうには相応の理由が必要でした。
5、推歩先生、旅立つ
幕府の許可を得るために彼らが思いついたのが、「地図の製作」でした。
というのもこの頃、日本近海には外国船が度々出没するようになり、海防政策が重視されるようになってきたからです。
軍事的な理由からも、海岸線の正確な地図は必要とされていました。
彼らの目論見通り、測量と蝦夷地渡航の許可が下ります。
測量の大役を任されたのはもちろん忠敬です。
忠敬は既に55歳。日本全国を行脚することを考えればかなりの高齢です。
しかし、至時からすればこの大役を任せられるのは忠敬しかいませんし、何より忠敬のやる気が半端ではありません。
実は、許可は下りたものの予算はあまりつかず、弟子を引き連れて測量に出かけた忠敬は、その費用の多くを私費で賄ったと言われています。
忠敬は、自分の全てをこのプロジェクトに捧げたとも言えますね。
そして、忠敬が浅草の自宅から蝦夷地に向けて旅立ったのが、寛政2(1800)年の閏4月19日。
彼は15年の歳月をかけて日本全国の海岸線を測量します。
(「地図の日」は、この日付からきています)
しかし、忠敬も至時も、地図の完成を見ることはありませんでした。
測量の成果をまとめた『大日本沿海輿地全図』が完成したのは文政4年(1821)年。
しかし、至時は文化元年(1804)年に亡くなり、忠敬自身も地図の編集作業が行われていたさ中、文政元年(1818)年、74歳でその生涯を終えました。
忠敬の死は伏せられ、地図編纂事業は弟子の高橋景保らが受け継ぎました。
6、さて、地球の大きさは
しかし、忠敬と至時の関心は、地図作製ではなく「地球の大きさを知ること」でした。
忠敬は、その測量の成果をもとに念願の「地球の大きさ」を算出しています。
彼が割り出した子午線1度の距離は「28.2里(110.75Km)」。
現在の測定でおよそ111kmであることを考えると、誤差はほとんどないことになります。
この結果は享和3年(1803)年、忠敬が江戸にもどった際に至時に伝えられています。
折しも至時が翻訳していた『ラランデ暦書』の記載とほぼ一致したことから、2人は手を取りあって喜んだと言われています。
そんな強い信頼関係で結ばれた師弟は、今、浅草にある源空寺に眠っています。
伊能忠敬の墓所、その隣には
髙橋至時の墓所があります。
忠敬が遺言として、至時の傍らに葬るよう言い残したと言われています。
今でもこの師弟は、膝を突き合わせて天文学の話に花を咲かせているのでは…と感じてしまいますね。
彼らの業績を刻む案内板には、彼らを「日本地図の父母」と評する記載があります。
また、忠敬の墓碑には
「忠敬は星や暦を好んだ。測量にはいつも、喜びを顔に浮かべて出かけた」とあります。
齢50を超えて自分の夢を実現した忠敬。その生き様には感じるところがありますね。
というわけで、今日は「地図の日」に関連して、伊能忠敬について取り上げてみました。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!