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村上天皇と「有無の日」

5月25日は、「有無の日」です。
第62代天皇、村上天皇(延長4(926)~康保4(967)年)の忌日(崩御した日)です。
有無の日は、この村上天皇が、「急な事件以外は政治を行わなかった(仕事をしなかった?)」ことから制定されたと言われています。
ただ、誰が制定したかも不明、さらに、「記念日」を登録管理している日本誕生日協会

にも登録はないなど、謎多き記念日です。

しかし、せっかくなので村上天皇について少し書いてみたいと思います。

1、天皇になった第14皇子

第62代天皇で、名は「成明」です。時代としては平安時代中期にあたります。
第60代天皇、醍醐天皇の第14皇子(!)。
第61代天皇、朱雀天皇は異母兄です。
母は藤原基経の娘、穏子。
もう1人の異母兄にあたる保明親王とその子、慶頼王が皇太子のまま死去。さらに朱雀天皇にも男子がなかったため、946(天慶9)年に天皇に即位します。

2、天皇親政?

村上天皇と言えば、醍醐天皇と並んで「天皇親政」を実現した天皇、と学んだ方も多いかもしれません。
後の時代、醍醐天皇の治世(延喜の治)と並んで、「延喜・天暦の治」と呼ばれました。

後醍醐天皇(1288(正応元)年~1339(延元4)年)

は、延喜天暦の治を理想視し、「建武の新政」を推し進めました。
「後醍醐」という辺りに、既にそのリスペクトぶりが伺えますね。
さらに言えば、この天皇親政体制を理想視する思想は、倒幕と「明治維新」の原動力のひとつでもありました。
さらに、明治維新以降、終戦以前の「皇国史観」にもその影響は強く見られます。
これらを考えると、後世に非常に大きな影響を与えた天皇であるとも言えます。

しかし、その天皇が「急な事件以外政治を行わなかった」というのは、どうにも違和感のあるお話です。これは一体どういうことなのか…。

実は、この時代の政治体制を見ていると、必ずしも天皇親政(天皇がトップダウンで政治を行うような体制)とは言えそうにない、という様子が見えてきます。

3、天暦期の国家体制を見てみると…

醍醐天皇や村上天皇の頃は、日本の政治体制は大きな変革を迎えていました。
それは、律令国家体制(中央集権体制)から王朝国家体制(地方分権体制)への移行

律令国家体制は、中央集権的な政治機構で、個別人身支配が原則でした(その台帳が戸籍・計帳)。
しかし、9世紀後半には、その支配に限界が訪れます。
そこで、10世紀初め、地方への権限の委任、個別人身支配から土地支配へと支配のやり方も大きく変わりました。
このような支配体制を日本では王朝国家体制と呼んでいます。

そして、この体制を支えていたのは摂関家(藤原氏)
その下で、中下級貴族が特定の官職を世襲。階級の固定化が進んでいました。
藤原道長や頼道に代表されるような摂関政治とまではいきませんが、政治の主導権は摂関家にあったと考えられます。
そして、村上天皇の時代には関白は置かれなかったものの、実際に政治を仕切っていたのは左大臣の藤原実頼

つまり、表面上は関白を置かない天皇親政に見えるのですが、主導権は藤原家が握っているという状況でした。
延喜・天暦の治の天皇親政を理想視して宣伝したのは、その後11世紀になり、摂関政治の中で藤原氏の権力がさらに強まり、もはや昇進も期待できない中下級貴族達でした。
彼らからすれば、延喜・天暦の時期は今よりは全然「まし」なわけで…。
彼らからすれば「まし」の意識が強そうですが、のちの時代になると「理想」の意識の方が大きくなっていきます。
この辺りのずれは、建武の新政や明治維新、そして皇国史観と比べてみると顕著ですね。

つまり、村上天皇が「急な事件以外政治をしなかった」のは、藤原氏に政治の主導権を握られていたから。
そして、天皇家と藤原氏との血縁関係(外戚関係)がさらに深まり、一層藤原氏の力は強まっていく。村上天皇は、その状況には不満を持っていたかもしれません。

4、文化と芸術を愛した村上天皇

村上天皇は、政治より文化を愛しました。

例えば951(天暦5)年、梨壺に和歌所を設け、源順ら、優れた歌人たちを集め、『後撰和歌集』の編纂を行わせました。
他にも、『清涼記』を著したり、960(天徳4)年には内裏歌合を行ったりと、ことに和歌を愛し、庇護しました。
さらに、琵琶や琴などの楽器も愛した村上天皇は、後の平安文化の土台を作った天皇でもあります。

最後に、芸術と風流を愛した村上天皇らしいエピソードを。
『拾遺集』や『大鏡』にある「鶯宿梅」の故事です。

ある時、御所の清涼殿前の梅が枯れてしまいました。
そこで、見事と評判であった紀貫之の娘、紀内侍の屋敷の庭にあった梅を、勅命によって召し、移植しました。
すると、枝に「勅なればいともかしこしうぐひすの宿はと問はばいかが答へむ」(勅命ならばとても有難いことです。しかし、あの鶯が来て、私の宿はどこへ行ってしまったのですかと尋ねられたら、私は何と答えればよいのでしょうか)という歌が結んであります。
この歌を結んだのは紀内侍でした。
そして、この歌に深く感じた村上天皇は、梅の木に「鶯宿梅」という名を与え、紀内侍の屋敷にその木を返したのだそう。
村上天皇の風流を愛する優しい人柄が見える気がしますね。

というわけで、今日は村上天皇について触れてみました。ご参考になれば幸いです!

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