TOKYOMER─喜多見という人の考察。
前回の記事で、喜多見先生がなんで音羽先生にああも喧嘩腰なのかわからん、と書きました。
あらためて、あのときのことを時系列で整理すると、①地下倉庫で爆発・地下に12人が取り残される→②MERがレスキューと突入・12人を救出→③千住さんが撤収指示→④音羽先生が13人目を発見し残る→⑤喜多見先生がヘルプに駆けつける、という流れ。
おそらく喜多見先生は①で音羽先生の「待っているだけでは助けられない命がある」の言葉を聞き、速攻着替えて家を出る→②の間に現場に移動(涼香ちゃんのマンションと現場はそれくらいの距離だった思われる)→③MER+レスキューが撤退して地上に戻るも「あれ音羽先生がおらんやんか」と気づいた皆の慌てた声の無線を拾う→④の間に入り口を見つけて1人突入(超人的な探知能力を発揮)→⑤で音羽先生と合流、という動きと思われる。
で、喜多見先生のあの喧嘩腰は、①自分の決め台詞をとられちゃった意趣返し。もしくは②「医療行為をするのが怖い」という気持ちを払拭するためわざと興奮状態に自分を持っていった(なので、音羽先生の「そっちこそ大丈夫なのか」という気遣いに少し落ち着きを取り戻している感)。これらの感情が混ざっちゃっているのか。
そのシーンを見返していて気づいたのは、「まだやれますか?」と言われた音羽先生が朦朧とした意識を奮い立たせ、治療に戻ってきたとき、喜多見先生は「お願いします」と小さく笑っている、ということ(ヘッダーのキャプチャがその瞬間)。そこからはもう、いつもどおりのふたりのコンビネーション。
思えば5話、音羽先生が妊婦さん、涼香ちゃんと閉じ込められたエレベーターに、喜多見先生はヒーローのごとく現れる。そして音羽先生に「手術を代わりましょうか」と言うのだが、音羽先生は「執刀医は自分。責任を持つ」と答える。そのときの、「おうっ」という喜多見先生の声が、実に楽しげなのだ。
あのとき私は、「ああ、喜多見先生は、医師である音羽先生を見るのが楽しいんだなあ」と思ったものだ。そしてそういう喜多見先生に、ちょっぴり狂気を覚えもした。だって、目の前に切迫流産の危険がある妊婦さんがいるのに、瞬間、「楽しい」って気持ちが勝る。天沼幹事長に対しても、丸め込むことをむしろ楽しんじゃってる感がある。場のテンションをあげようというよりは、自分のアドレナリンを抑えられない感じ。
最終話のこのシーン、あの瞬間に笑みが出る喜多見先生に「狂気」を感じるかというと、まだちょっとよくわからないのだけど、それでもほんの少し前まで深い喪失感を嘆くばかりだった人が、「涼香を思い出しそうで怖い」と震えていた人が、あそこで笑みを零す心持ちを考えてしまう。音羽先生がふらふらとでも戻ってきたことで、「患者を救える」と思ったからか、極限の状態でも一緒に闘える人がそこにいるからか、私にはよくわからない。でもあのエレベーターでの言動を思い出すにつれ、なんとも喜多見先生らしいなあと思い、わずか一瞬、笑みをこぼすことを選択した鈴木亮平さんのすごさを見た気がしたのだ。
喜多見という人についての考察で、私はあれこれ感じたことを書いてきたけれど、実際、制作側や鈴木亮平さんがどう思って喜多見像を作り上げたかはわからない。ただ私はこの喜多見という人は、医師としては完璧でも人間としてはどこか欠けている、というほうがよっぽど好き。他者への共感性が薄いからこそ目的を定めたら容赦なく他者を動かせる一方で、リーダーシップを求められないときには人との距離感がよくわからず、普段はどうしてもなよなよ頼りなくなってしまうところも。そのへんの塩梅が、鈴木亮平さんは本当に上手い。
話がそれるけれども、MERの魅力のひとつは、テンポとカメラワークに優れたオペシーンにあると思う。最終回の中盤、心損傷の患者さんを治療するのだけれども、その最中、駒場さんから「新たに18人のけが人が出た」と報告が入る。それを聴きながらも一人一人がそれぞれのやることを継続しているシーンが、すごく良い。冬木先生はモニターと輸液をチェックし、音羽先生はすいすいと手元を動かして修復作業をしていて、比奈先生がそれを補助、夏梅さんは器械出しのタイミングを見ていて、ミンさんと徳丸くんがドレーンの準備をしている。ほんの数秒のカットだけれども、役者さん一人ひとりの確かな演技と、そのコンビネーションが光る。
MERというお話はちょっとのツッコミどころなどぐいぐいと押し流していくほどの、スケールの大きさと力強さが魅力なのだけれども、それがともすれば物語としては「雑」にさせてしまいそうなところを、鈴木亮平さんや、オペシーンのチームワークといった役者さんの圧倒的技量がしっかりとリアリティを落としこむことで、最後まで変わらぬ熱量で、あのテーマを描ききることができたのではないかと、そんなことも思う。