『鎌倉殿』46話。
実朝編を見ていて思うことは、結局のところ、頼家に関する始末のつけ方が、すべて尾を引いているのだなあということである。
鎌倉における絶対的主君は源氏であり、頼朝亡きあとは頼家だったので、少なくともあのとき、北条には「北条の都合で主君を強制的に排除した」という謀反の罪が生まれた。しかし義時も、誰も、このことに思い至らない。私が義時の行動に感じているもやもやというか矛盾は、おそらく全てここに帰結する。
義時の「身内にこそ厳しくしなければ、ほかの御家人に示しがつかない」の本質は、「身内をも厳しく断罪する北条」による恐怖政治を確立することによってでしか、北条の立場を維持できないから。たとえば和田義盛を「鎌倉殿にとりいったものの末路」と断罪したわけだが、それでは「鎌倉殿を強制的に排除したものの末路」はなんなのか? 鎌倉殿を見殺しにした罪は?
義時の言動には、こういった矛盾が常について回る。それは「鎌倉のため」が結局のところ「北条を守るため」という保身でしかないことを示している。どんなにそれらしいことを言い、周囲を恫喝しようとも、頼家を殺し実朝を見殺しにした自分の罪を見逃している以上、説得力はない。ないから、声を荒げるしかない。
自分の罪は不問にし、他者の罪は断罪する。そのためには鎌倉殿という存在意義もときどきによって都合よく解釈する。これでは彼がどんな鎌倉を目指しているかわからなくてもしょうがない。頼朝の観音像を泰時に譲ったとき、泰時は義時を「父は罪から目を逸らしている」と嘆いた。時代を経て、あの言葉が義時の核心をついてくる。
目の前のことに対処しただけ、生き残るために必死だった、といえば聞こえは良い。しかし彼は施政者である。自分の家のことだけ考えていれば良い立場ではとっくにないのだが、判断基準は常に「北条を守るため」。他のものからすれば、幕府が何をどうするかわからないという疑念や恐怖がつきまとう。義時は、そこを整理しようとは思わなかった。「恐怖政治で北条を守る」という意図か、そもそもその発想がなかったか、そこはわからない。
泰時がのちに行ったことは、この整理である。法を作り、何が良くて何が罪になるのかを広く周知し、人々が価値観を共有することで秩序ある世になるよう務めた。この明文化という手法は同時に、権力者の裁量を制限することも意味している。法から外れれば幕府が吊るし上げに合うだろう。執権である泰時自身が、最高権力者でありながら己の裁量を制限されるのだ。義時のように、自分の罪は横に置いてしれっと権力の座に留まることは(名目上)許されない。
あの時代において法治を徹底させるためには、父親や祖父が好き勝手に権勢を振るった北条の家のものとしても、泰時や時房が相当に厳しく自身を律したことは想像に難くない。
執権職に就いてから戦のない時間のほうが圧倒的に長くありながらも義時がこういう世を目指そうとしなかったのは、やはり彼も「力には力で」が基本の坂東武者だからだろうという気がする。誰しも生まれ育った社会の価値観や思考を転換することは難しく、それ自体は良し悪しではない。自身の価値観に照らし合わせ「やむを得ない」と手を染めたこともあっただろう。
では息子の泰時がなぜ、その「やむを得ない」をやむを得ないままにせず、「価値観の大転換」という大革命を起こせたかは、史実を見ていても私にはよくわからない。ただ『鎌倉殿』においては、泰時は「安易に殺すな」「殺しを決着にするな」という一貫した思想を早い段階から持っている。その思いは、幼馴染で仕えるべき主君になるはずだった頼家の死に端を発し、身を捧げるはずだった実朝というもうひとりの主君を失ったことで、より一層強くなったように見える。
奇しくも、義時が目を逸らし続ける罪業に息子が真っ向、向き合った結果が、法治という安寧の世の到来をたぐりよせてゆくのだ。
作中の泰時はまだまだ悩みの途上にある。私は泰時ののちの施政感や政治感は、承久の乱のあとの在京時代に育まれたものと思っているから、鎌倉という小さな世界のなかでは羽化するにしきれない彼の姿をとてもリアルに感じる。
ただ、戦さを回避するためなら「プライドは捨てるべき」と言い切れる彼は、やはり新時代の旗手なのだろう。そして、強い人でもある。泰時に言われなかったとしても時房が義時の思うような強硬策で交渉に挑んだかはわからない。しかし甥っ子から「最優先にすべきは戦の回避」と訴えられ「それもわかるんだよなぁ(むしろ私も今回はそっちだと思う)」な時房もまた、違う意味で強い人だ。
思えばわずか2回前に、「修羅の道に付き合ってくれ」と言われ「もちろんです」と即答した時房が、「意地の張り合いはそろそろやめるべき」と義時に釘を刺すシーン。時房からすれば、このまま張り合いを続けていけば関係のない御家人の領地にまで手を出されますよ=求心力が落ちますよ、という現実的判断なのだろうけど、一蓮托生を約束したはずの相手にあっという間に突き放された義時、意外と修羅の道が短くてちょっと笑ってしまった。
今回、義時の暴走を、尼将軍爆誕の裏で叔父・甥連合がひっそりと食い止めていたわけだけど、時房にとって、兄上に付き合うことも甥っ子の意を汲むことも、イエスマンに徹することとイコールにはならない。例えば頼朝や、のちの泰時のように明確な政治ビジョンが描けるかというと違うのかもしれないけれども、時政や義時が本来そうであったように、時房もまた「有能なナンバーツー」として未来を作っていくのかもしれない、そんなことを想起させる回でもあったなあと思う。