TOKYO MER──ドラマアカデミー賞と映画化。
最近になってようやくなのですが、ザテレビジョンの、2021夏期のドラマアカデミー賞なるものを見ました。私も昨年の7〜9月期のドラマはわりと観たんじゃないかなあと思っていて、ハコヅメやナイトドクターなど面白かったなあと思い出すラインナップでもありました(ちなみに10月以降は、朝ドラと大河、『最愛』ぐらいしか見てません。今は『ファイトソング』と『DCU』だけリアタイ中)。
この賞、もう109回と回数を重ねていながら、実は私、初めて目にしたに等しい状態です(すみません…)。そこはそれ、私もとあるアイドルのファンをやっていますので、特にJ事務所の人たちが出ているドラマにはある程度の組織的といっていい視聴者票がつくことは、容易に想像できます(笑)視聴者にはそのクールのドラマすべてを見ている、という人はほぼいないでしょうし、ドラマが好きだからといって皆が皆、この企画に熱心に投票するわけでもない。そういった補正の意味でも記者票と審査員票があるんだろうなあと思ったりもしました。作品賞でもこの三者で見事に評価がわかれていて、そういうところも興味深かった。私的にも良いドラマが多かったクールだったので評価が割れるのも納得ですし、主題歌部門を受賞した『ハイドレンジア』も、個人的に一番印象深かった主題歌です。
MERに関して言えば、面白かったのはそれぞれの受賞インタビュー。鈴木亮平さんの「喜多見の大変さを味わえばいい」には笑ってしまった(笑)喜多見自身は自分の好きでやっていることでしょうから、多分、鈴木亮平さんのほうに喜多見を演じる上で大変なことがいっぱいあったのだろうと推察します。それを、音羽先生に対してなのか、賀来賢人さんに対してなのか、「大変さを味わえ」と言うところに、キャスト同士の仲の良さとキャラクターへの愛着を感じてしまいます。
あとこのドラマで喜多見先生と音羽先生以外にもう一人、とても印象的だったのが菜々緒さんだったので、この受賞は本当に嬉しくなりました。
私のなかでの菜々緒さんのイメージは、とても華やかなオーラを持った方。抜群のスタイルも相まって、キラキラとどこか浮世離れした──私などからするととても遠いところにいる──存在だった。それがMERでは、驚くくらい「普通の人」。その存在感を、喜多見先生や音羽先生の前にはけして出さない。看護師として粛々とオペをサポートし、ときには研修医の比奈先生をそっとリードする。今このときも、日々誰からも喝采を浴びることなく、けれど医療現場のどこかで自分の仕事をまっとうしているだろう「すぐそこにいる」看護師の美しさと強さを、菜々緒さんは絶妙なバランスで演じ切った、と感じていたのです。
私はERカーでのオペシーンがとても好きなのですが(設定上とはいえそこには傷ついている患者さんがおられるので、『好き』と表現するには少し複雑な感情はあるけれど)、オペを含めた医療行為のシーンには、製作陣、俳優陣とも最新の注意を払っていたことがインタビューからはわかります。
監督のインタビューで「オペシーンは通しで撮った」とありました。それがゆえか、ことオペシーンに関しては、ドラマではなくドキュメンタリーを見ているような臨場感があります。
で、『日曜劇場』といえばとにかく“熱い”ドラマが並ぶ枠。『半沢直樹』は観たことがありませんが(あんなに話題になったのに!)、『下町ロケット』や『陸王』『ドラゴン桜』などなど、じんわりほのぼのというよりは鬱陶しいほどの(笑)熱い熱量をカメラに、つまり視聴者に向けて放ってくる作品が多い。『MER』もその並びの作品であることには間違いはないのだけど、MERのオペシーはちょっと趣が違っているなあと私は感じています。なんでかというと、俳優陣はむしろカメラそっちのけで目の前のオペ(救命)に集中している。なんなら視聴者もそっちのけ。なぜなら彼らが具体的に何をしているのか、おそらく医療従事者でない限りさっぱりわからないから。そしてそれを、誰も説明しようとはしない。
ドラマによっては、キャストのなかに狂言回しのようなポジションをひとりでも投入して、喜多見というスーパードクターが何をしているのかを視聴者にわかりやすく説明する役を担わせると思います。
でもMERではそれをしない。なぜならあの車のなかには、スペシャリストしかいないから。サテンスキーって何? ドレーンって何? アドレナリン投与するとどうなんの? 喜多見先生は何をカシャカシャ打ち込んでるの、音羽先生はなんの後始末をしてるのetc。視聴者(つまり私)が思うド素人的質問をするようなキャラが救命の現場に、ましてやあの狭い車内にいるわけはないのです。私はそういう置いてけぼり感、好きです。プロの仕事を間近に見るってこうだよなあ、と思うから。
そんなオペシーンが生まれるには、あのERカーのなかにいるMERスタッフにいわゆる「モブキャラ」がいないのが大きいんじゃないかなとも思います。7人は、キャラも役割もそれぞれにきちんと立てられている。そのうえで、カメラは喜多見と音羽というふたりの医師をメインに捉えるから、なんとも贅沢な話、あのERカーのなかではときに菜々緒さんや小手伸也さんさえもモブキャラ化するのです。そして、そんな「モブ」と化したときのメンバーの動きがまた、良い。
たとえば菜々緒さん演ずる夏梅は、医師の動きを逐一目線で確認しながら次の道具を準備し、ときには廃棄物をまとめてぽいぽいしていたりする。メインでカメラに抜かれるわけでもないのに。他のメンバーも同様に、カメラのピントの合っていなかろうが、誰かの陰になっていようが、あるいはフレームの外にいようが、常に“オペに必要な何か”をしている。そんな彼らの仕事がなければ、あのオペシーンは絶対に成立しないなあと思うのです。
おそらくこれまでの『日曜劇場』では(あるいは他の医療ドラマでも)、登場人物が何をしているか、どれだけ凄いスキルを持っているか、説明があったのではないかと思います。でもMERでは、セリフは最小限にし、俳優陣の動きで見せることに徹します。加えて、MERの仕事は救急に託すまでという役割どおり、患者がその後どうなったかに触れられることはほぼ、ありません。触れられるとすれば比奈や音羽を通してであって、喜多見に関してはセリフで少し描写される程度。医療ものドラマならば当たり前にあった、患者と医師の交流(+そこから生まれる葛藤)の描写は、MERではほぼ排除されている。その徹底した削ぎ落とし方は、「患者のもとへ医師自らが出向き、病院までを繋ぐ」というポジションのありようそのものを、正しく視聴者のなかに落とし込んでくる。
ドラマだけにちょいちょいって突っ込みたくなるところや、もうちょっと作り込んで欲しかったな、と思うところはいくつかあったけれども、それを差し置いても、医療というものに対してとても誠実なドラマだったな、と振り返っても思います。
とはいえエンタメとリアリティのバランスというのは難しいもので、私はいまだに、涼香の死については考えてしまいます。
医療ドラマである以上、「死」から目を背けるわけにはいきません。10話をかけ視聴者に愛されるよう育てたキャラをその「1」に選んだことは、むしろ「1」にこめられた命の重さに対しての誠実さであったとも言えます。いやいや当たり障りのない人物にしときゃいいじゃん、なんて軽いことはもう言えない。涼香を失った苦しみや喪失感を、視聴者も共有してしまった以上は。このドラマにおいて「1」はそんな安易な存在じゃないんだぞと突きつけられた以上は。
だから私は、MER映画化は少し怖い。私は彼らがオペと向き合うシーンが見たい。喜多見先生と音羽先生のバディワークが見たい。彼らのチームワークが見たい。ゼロでええやんか。いやでも鬼脚本だからな。怖い。楽しみだけど、怖い。今、そんな気持ちでいます。
最後に。MERにモブキャラはいませんよ、という話ですが。
最近コロナ関連のニュースで、とある病院が感染者増にともない臨床工学技士を増員する、と報じていました(ECMOなどの装置を必要とする重症者の対応のため)。
私は恥ずかしながら、MERの徳丸くんで臨床工学技士のことを知りました。おかげで先日のそのニュースも「おっ」と関心を持って見ることができました。有難う、徳丸くん。あなたのおかげです。きっと「麻酔科医」と目にしたら、冬木先生を思い浮かべるんだろうな、と思います。登場人物を「ただそこにいる人にしない」MERの描き方こそが、こうした日常の気づきをももたらしてくれるんだろうと思います。
ときどき、喜多見先生の「鑷子(せっし)くださーい」を聞きたくなります。夏梅さんの「はい、さんゼロー」も。MERはメンバー同士が敬語でやりとりするのも良かったですね。
マリトッツォ、食べようかな。
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