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トルソー

明け方、地震があった。とは言っても一分にも満たない短時間で弱い揺れである。 
 揺れる少し前になんとなく目が覚めた。妻はそれには気付かず、規則正しい静かな寝息を立てて眠っている。午前五時二十分だ。
 秋の日の出は遅く、寝室はまだ暗い。引き戸の障子がカタカタと鳴る。枕元のスマホを手にすると既に地震情報が届いていた。
「震源地 釧路沖 マグニチュード4・2
十勝中部 震度1」
 目覚ましの設定時間にはまだ一時間ほどある。それまで眠ろうと思ったが軽い尿意があった。十一月の朝は寒い。トイレへ行き布団で温まった体を冷やしたくない思いと、済ませなければ二度寝はできないだろうという思いとが交錯した。
 やはり行っておこうと布団から出ようとすると、きっかりと横向きで寝ている妻が目に入った。羽根布団が体の線に沿って柔らかな線を作っている。
 幼い頃からクラシックバレエを習い、今も週に二度、近所のダンススタジオで講師をしている妻の体は、還暦を過ぎても均整がとれている。肩から脇へ、脇から背へ、そして腰へとなだらかな稜線が、常備灯のぼんやりした光の中に浮かび上がり、私の目に焼き付いた。実に無駄のない美しさである。
 長い年月をかけて修練を積み、鍛え抜かれた人間の身体というものは、これほどまでに完成された美を放つものなのか。
 こんな風にゆったりした気持ちで妻の背中を見つめたのは初めてかもしれない。
 以前、テレビでフィギュアスケートの大会を見ていた時に、軽々と片足を上げクルクルとスピンする女子選手のことを妻と話したのを思い出した。
「よくもまあ、あんなにまっすぐ足を上げられるものだな。一本の線みたいだ」
「開脚ができていますね、この子はトレーニングのバレエをしっかりやってるんでしょう」
 言われてみればバレエのポーズに似ている。
「バーをつかった柔軟体操があるんです。それで骨格を矯正するんですよ、それをしなきゃ足を高く上げたまま爪先で立つなんて普通の体ではできませんから」
「お前はもうそれが済んでいるのかい?」
「済んでいると言えばそうかもしれませんけど…でも今もバーレッスンは欠かさないです」
「地道に続けなければ舞台には立てないか」
「そうでしょうね、古典を踊る人は大抵足が外向きでしょう?」
「あれも矯正したからなのか」
「そう。口の悪い人は『ガニ股』なんてからかいますけど矯正が済んだら普通に立っていても一定の角度を保って外向きになります。ピアノもそうでしょう?」
「ピアノ?」
「基礎の教則本で手を矯正しますから。だから指が長くなくても手が小さくても、一定の過程を終えたら一オクターブ届くようになるんです」
「そんなものかな」
「そんなものよ。だからこそ古典なんです。踊りも楽器も。何百年もの歴史があって現代でも廃れていないのは、そこに基礎があって一つずつ進めていく、次の段階には成長があるものなんです」
 妻の講釈を聞く羽目になったが、今、西洋の彫刻のような背中を見ているとあの話も納得がいく。
 
「今朝地震があったの知らないだろう?」
 朝食の支度をしている妻に話しかけた。
「何時頃ですか?」
「五時過ぎだ。お前はよく眠っていた」
「起きていたの?」
「なんとなく目が覚めた。揺れる少し前にね」
 
 私が勤務する広告企画会社は数年前まで定年が六十歳だったが、最近の風潮や即戦力の尊重、顧客との関わりなどを考慮し、今では六十五歳となった。夏に迎えた誕生日でその年になり、年度末の三月に退職が決まった。 
 同い年の妻は旅行に行きたい、思い切って海外はどうだろうか、昨年結婚したばかりの娘夫婦や近郊で一人暮らしをしている息子も誘ってみんなで行くのもいいかも、でも都合はどうかしら、などと、ここ最近私の定年後のことをしきりに話題にする。
「新婚旅行はどこだったっけか」
「九州です、長崎のちゃんぽん、あなた美味しいってお代わりしたじゃありませんか」
 他愛のない会話をしながらも私は、また妻の背中を目で追う。焼き魚の加減をみるのに軽くかがんだ時、フライ返しを取るのに背伸びをした時、戸棚から皿を出す時、あの曲線がエプロンの紐で浮き上がる。
 視線に気づいたのか「なに見てるの?」と妻が聞いた。
「いや、旅行のことを考えていた。春がいいかな。悪天候で飛行機が飛ばない、なんてこともないだろう」
 強引に旅の話に話題を変えたが妻は頷いた。
「連休は混むかしら? 美奈も優輔さんもお休み取れるかしらねえ、翔太は早めに言えば休暇をとれるって前に言っていたけど」
「どうだろうな、聞いてみてくれ」
 そう言ってテーブルに並んだ朝食を食べ、
出勤準備をした。
 
 その日から妻の後ろ姿を見ることが増えた。妻は「服装とか、おかしい?」などと聞くが、その都度適当にごまかした。 
 お茶を濁すのも限界になった頃、私は思い切って彼女を褒めてみた。
「見ていて飽きないんだよ」
「はい?」
「古典の踊りで基礎から学んで出来上がった体がね、美しいんだ」
 照れるか、笑うか、それとも認めるか。しかし妻は真顔であっさり言った。
「なにを言ってるんですか、いい歳をして」
 
 計画通り、四月の半ばに家族旅行をすることができた。行先は九州である。長女の夫だけがどうしても休みが取れず留守番となったが、退職祝いに高級ウイスキーをプレゼントしてくれた。
「お義父さん、お疲れさまでした。今回はご一緒できませんけど、今度は必ず行きましょう。この次は僕とゴルフ対決しませんか?」
 私はサイドボードの一番上に箱ごと丁寧に飾り、ゴルフの約束をした。
「優輔さん、残念ねえ」
「もしかしたら気を利かせたんじゃないのかな?」
「そういうことにしておきましょうか。お土産を奮発しなきゃね」
 娘が嫁いでから四人で出かけるのは初めてなので妻ははしゃいでいた。
「翔太も休みを取れてよかったわね」
 その日の九州は北国よりも十度ほど高い気温で天気も良く、名高い観光地をいくつか回って三泊四日の旅を終えた。
 
 妻が唐突に消えた。
 家族旅行から半年がたった日である。
「頭痛薬、まだあったかしら」
「頭が痛いのか?」
「ええ、風邪かしらね? 今日は早めに休みます」
 そう言って寝支度を始めた妻の背中ががくんと崩れ、その場で激しい嘔吐を繰り返した。救急車を呼び、到着までの間娘と息子に電話をした。
 救急指定の病院に着き、検査をすると脳内出血ですぐに開頭手術をすると言われた。しかし妻は手術室で息絶えた。妻にすがって泣く娘と息子、立ち尽くす娘婿の横で私は、手術のために髪を短く刈り込まれ、マジックで額にマーキングされた妻の顔を見ていた。
 これは妻ではない。顔が違い過ぎる。美奈、翔太、お前たちは何故泣いているのだ。優輔くん、何故君は何も言わずに立っているのだ。
 ドアが開き医師が入ってきた。
「助けることができず申し訳ありませんでした。大島さんは脳内の出血が多く、そのせいで右脳が変形していました。腫れもありまして…」
 要するに助からなかったのだ。
 体は細いが病気らしい病気をしたこともなく、風邪も数年に一度ひく程度の妻を、私は勝手に丈夫だ、健康だと思い込んでいた。
 看護師の手によって清拭された妻は、ペンのインクが消え、頭に淡いピンクのタオルを巻かれてさっき見た顔より少し穏やかになった。
「大島洋子さまの死亡診断書です」
 看護師から手渡された茶封筒は、ずしりと重く感じた。
 
 帰宅すると、妻を黄泉の国へ送り出す準備に追われた。親族への連絡は息子と娘婿が、旅立ちの準備は娘が中心になり動いたが、突然すぎてうまく立ち回れない。
 それでも娘の助言で妻が好きだった淡い桃色の装束を揃え、棺にトゥシューズや舞台で使った衣装を入れることができた。
 納棺師が妻を整える。親族の手で清拭を終えたあと、寝間着から装束へと衣装を変える作業に入る。布団をかけたまま体を横向きにした時、あの曲線が見て取れた。
 思わず声を上げそうになる。しかし納棺師はそんな私には目もくれず、的確に着替えを済ませると化粧を施した。
「綺麗」
「長く患うこともなかったから、本当にね」
「なんだかまだ信じられないわね」
 左前に合わせた衣装よりも、紅で華やかになった唇よりも、私は背中を見たかった。
 
 葬儀が済んだ。七日ごとに住職が来て読経をする。仏前の準備は娘がしてくれた。それを七回繰り返し四十九日が終わると、私は居間が急に広くなったように感じた。時の流れも遅すぎた。
「犬か猫でも飼うか」
 動物の世話など苦手なのにそんなことまで考えるほど私は一人の時間も空間も持て余していた。
 力なくソファに横たわり、手元のリモコンでテレビをつける。見るとはなしに画面に目を向けるとスポーツ番組である。
「それでは今シーズンへの意気込みをお聞かせください」
 アナウンサーにマイクを向けられた少女は小柄な体をトレーニングウェアに包み、正確なジャンプを、と話していた。ほどなく昨年の試合が流れる。白いスケートリンクに真紅の衣装を着た彼女が見せるスピンは、足を高く上げまるで一本の線のようであった。
 あの曲線に会いたくなった。
 無性に。
 では果たしてどこに行けば会えるのか。妻はもういない。代わりに何を目の前に置けばいいのか、皆目見当がつかない。天井を見上げながら、記憶の中にある曲線を探る。
 壺か。一輪挿しの方がそれに近いだろうか。 
ワインのボトルはどうだろうか。
 考え始めると止まらなくなる。けれど、これだと思えるものが思い浮かばない。
 世の中の様々な物体には直線が多すぎる。物理的にも人体工学的にも、曲線を使うより、まっすぐに仕上げた形の方が人間にとって合理的なのだろうか。
 ふと思い立ってデパートに出かけることにした。色んな売り場を歩いているうちにヒントが見つかるかもしれない。理想のカーブを持つ品物があるかもしれない。
 
 コートを着てクルマに乗る。エンジンをかけると妻が淹れっぱなしにしていたCDがかかった。バッハのインヴェンションである。
「レッスン指導に行く時はこの曲がいいの。気持ちを落ち着けたい時にもいいのよ」
 そう言って、運転時につい気が短くなりがちな私のためにいつもこの曲を支度していたのが、遠い昔のことのように思える。
 ピアノの音色に癒されながら、こんなにしてまで妻を重ねる物体を探しに行く自分が少し滑稽に思え苦笑したが、振り切るようにギアを入れた。
 
 平日のデパートはひどい混雑もなく、駐車場にもすぐに入れた。エレベーターの横に売り場を表示したプレートがある。日々の細かい買い物などはすべて妻にまかせていたので、どこに行けばいいのかわからない。
 だが衣料品や食品、化粧品売り場にはないだろうと、とりあえず生活雑貨を扱うフロアに移動する。 
 陶器売り場で花瓶を見ようと探したが、皿や茶碗ばかりが目に付く。通路を挟んだ反対側の陳列棚には弁当箱、鍋、まな板が並び、女性客ばかりだ。ウロウロしている私が気になったのか店員が声をかける。
「何をお探しですか?」
「あ、ええっと…花瓶を。一輪挿しでもいいんですが」
「フラワーベースですね?」
 そうか、今は花瓶などとは呼ばぬのかと苦笑する。
「こちらが売り場です。奥に一輪挿しなどの小型のものを置いてあります」
 私は礼を言い、並んだ花瓶を見た。形は似ているが色が違う。透明感のある白を見つけたが直線である。思い描くカーブを持ったものはない。
「まあ、いいか。どうせ暇なんだし、この際だからあちこち見てみよう」
 そう思ってエスカレーターの向こう側に目をやると、よく似た曲線があった。そこは文具コーナーである。走り出したい衝動を抑えそばに行くと、小さなラベルが貼ってあった。
「美術教育教材 デッサン用トルソー」
 光沢のある白でできたそれは首の下から腰までの女性の裸体と同じ形で、二十センチほどの高さだ。
「デッサン教材をお探しですか? こちらに指や顔のトルソーもございますが」
 レジにいた店員が聞く。
「いえ、これを。これをください」
 素早く薄紙で包装し、紙袋に入れながら店員が言った。
「絵を描かれるのですか?」
「あ、いえ」
「じゃ、美術の先生とか」
「そういうわけでは…」
 即答しない私に店員はそれ以上聞くのをやめ、包みを手渡す。会計を済ませ急いで家に帰った。
 どこに置こうか。帰るクルマの中で考えたが決まらない。妻が使っていた布団では生々しすぎるし、台所は不自然だ。
「そのうち決まるだろう」
 とりあえず寝室に置く。その夜、私はトルソーを床の間に置いた。その白を見つめているうちにそばに行きたくなった。つるつるした感触はずっと触れていても飽きない。あの背中を見続けていた時と似た感情である。
「冷たいな」
 無機質なそれは妻の体温を持つものではない。生きているうちにあの曲線に触れておけばよかった。きっと妻は「くすぐったい」と笑いながらも許してくれたに違いない。
 暖かくもなく反応もないカーブにゆっくり触れながら、私はトルソーを強く抱きしめ、このまま永遠に眠り続けたいと思った。


多分5~6年くらい前に書いた作品…いつだったかな。地元新聞社主催の公募で入選した短編です。


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