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街角のラヴェル

 ピアノの音がする。「きらきら星」だ。よく散歩の途中で立ち寄る保育園の先生と園児か。ピアノに合わせて子供達が唄っている。
 ここは中心街に近い「市民プラザ」の一階にあるコーヒーショップ。アルバイトを始めて一か月が経った。
 叔父が店長で「夕方のシフトに入れる人が少なくてな。お前、放課後手伝ってくれないか?」と頼まれたのがきっかけであった。
「俺で勤まるかなあ?」
「お前は礼儀正しいから大丈夫だよ。姉さんがきっちり躾しているからな」
 大学受験までは二年以上あるし、部活動もやっていなかったので引き受けたのだ。
 アルバイト初日、カウンターの拭き掃除をしていると突然、ホールからピアノの音色がして驚いた。振り向くとセーラー服の少女が数人の友人に囲まれ、演奏をしていた。
「あんなところにピアノがあるんだね」
 コーヒー豆を仕分けしている叔父に言った。
「ストリートピアノって呼ぶんだろう、駅や空港にもあるって。あれは『街角ピアノ』だ」
「街角?」
「ピアノの前に看板が出ているぞ。駅も近いし大型店舗も近いし。確かに街角だな」
 俺はモップを置いて鏡面仕上げで黒光りするグランドピアノに近づき、看板を見る。
ー街角ピアノ ご自由にお弾きくださいー
「ところでお前、明後日の日曜日に少し手伝ってもらえるか?」
「予定はないし、いいよ。何時?」
「午後二時くらいから夕方まで来てくれると助かるんだが」
「十一日の午後二時ね、了解」
 二日後、約束の時間に店に着いた。いつもアルバイトに入る平日の夕方とは雰囲気が違う。ホールを行きかう人の数も多い。電光掲示板に表示される予定表には、日本舞踊の稽古や医療関係の講演会、朗読会、親子料理教室などと出ている。
 店に入り制服に着替え、ランチタイムの看板を片付けようと入口に行くと、ピアノが聴こえてきた。三十代くらいの男性が「街角ピアノ」を弾いている。
 知らない曲だが美しいメロディーだ。聴いたことはないのに何故か胸が熱くなる。
「ああ、今日は十一日だもんなあ」
 叔父が言った。
「去年の冬くらいからかな、毎月十一日に来てあの曲を弾いているよ」
「毎月?」
「豆の仕入れ日が毎月十日だろう。翌日に納品書のコピーを本社に送るから覚えちまった」
 ホールや二階につながる階段にはたくさんの人がいるが、彼はそれには興味がないという風に弾き続けている。
 曲が終わると奥の椅子に座っていた女子高生何人かが拍手をしたが、彼は表情を変えず軽く会釈すると、椅子を戻して出て行った。
 俺はその日、ずっとあの曲と演奏していた男性のことが頭から離れなかった。
 翌月の十一日は創立記念日で学校は休みだった。俺は用もないのに店に行き、椅子を拭いていた叔父に声をかけた。
「おう、優輔。どうした?」
「創立記念日なんだ」
「ジュースでも飲んでいかないか?」
「いや、悪いよ。仕事中でしょ」
「いいんだ、遠慮するな」
 俺は入口に近い席に座り、叔父がご馳走してくれたオレンジジュースを飲みながら植木鉢の向こうに見える「街角ピアノ」を見ていた。
 白いシャツの男性が扉の向こうに見えた。
 来た。
 あの人だ。
 まっすぐピアノに向かう。椅子の高さを調整すると、それがまるで演奏前の儀式だとでもいうようにキリッと背筋を伸ばした。ためらいなく鍵盤の上に躍らせた手は、やはりあの日の曲を奏で始めた。
 俺は叔父に礼を言い店を出ると、ゆっくりピアノに近づいた。彼は鍵盤を見ている。この前の胸の熱さが蘇った瞬間、声がした。
「なにか?」
 俺はそれがどこから聞こえてきたのかわからなかった。一瞬、彼は鍵盤から目を離し、演奏しながら俺を見て言った。
「なにか?」
 ようやく自分に向けた彼の問いとわかった。
「あ、いえ。綺麗な曲だと思って」
 彼は再び鍵盤に視線を戻した。
「あの、俺、いや、僕、先月も聴いたんです、この曲、ここで、それで…」
「みんな『綺麗な曲』って言ってくれるよ」
 俺は、彼がこの曲を「綺麗」と言われることに不満を感じているような気がして慌てて、
「あ、でも」と続けた。
「綺麗で美しいんですけど、哀しさもあるような気がして、泣きそうになって。ピアノのことはわからないんですけど。すみません」
 彼は今度は答えず弾き続ける。俺はそこから立ち去ることができず、突っ立っていた。
 曲が終わった。
「ラヴェルだよ」
「はい?」
「モーリス・ラヴェルっていう作曲家の曲で『亡き王女のためのパヴァーヌ』だ。パヴァーヌは舞踏の種類。ピアノ曲だけどラヴェル自身が管弦楽用に編曲をしているから、フルオーケストラで演奏されることもある」
 言い方はぶっきらぼうだが優しい目だ。
「ありがとうございます」
 礼を言った俺に頷くと彼は自動ドアの向こうに消えた。
 家に帰るとパソコンを立ち上げ、無料動画配信サービスにつないで「亡き王女のためのパヴァーヌ」を検索した。普段は流行の歌しか聴かないのに、突然ピアノ曲を聞いている俺を、父も母も不思議そうに見ていた。
 
 夏休み前に学校祭が開催された。部活に所属していなかったので、クラス単位の出し物と最終日の体育祭で選ばれた種目に出るだけだった。グラウンドで学校祭終了の花火を打ち上げ、ゴミ拾いをして解散すると午後八時を少し過ぎていた。
「寄り道せずにまっすぐ家に帰ること!」
 担任がメガホンで叫んでいたが、同級生に誘われ市の中心部にある広小路アーケードに出かけた。
「俺の友達が土曜の夜にストリートダンスをやってるんだ。見に行かないか?」
 そう誘われ級友十人ほどで街に出た。ダンスはもう始まっていて「ギャラリー」と呼ばれる見物客が輪を作っている。
 ダンスが終わりかけた時、背後で突然拍手が起こった。歓声も聞こえる。アーケード街でたむろしていた人たちが走り出した。
「ザ・ピースだ!」
「今夜見られるなんて。来てよかったね」
「超ラッキー!」
 俺たちは急に出来上がった人だかりを見た。
「あのバンドね、すごく上手なストリートミュージシャンだよ。メンバーは全員本業を持っているから滅多にお目にかかれないんだ」
 俺たちを誘った友人が言った。見物している人達の後ろ姿ばかりでメンバーの顔は見えない。一曲終わるたびに、路上に置きっぱなしのギターケースに観客がお金を投げ入れる。
「あれ、なに?」
「『投げ銭』だよ。いいパフォーマンスだと思ったらあんな風にお金を投げ入れるのさ」
 自分の知らない世界をほんの少し垣間見た気がした。それは大人の雰囲気で、なんだか背伸びをしているような感覚だった。ポケットには五百円玉が二枚ある。楽器の上手下手はわからないが聴いていて心地がいい。気に入った曲があったら投げ銭をしてみたかったが、同級生たちは関心がなさそうだった。ポケットに手を突っ込み、体温で生温かくなった硬貨を握りしめたままでいると「ザ・ピース」は最後の曲を終えた。
「アンコール! アンコール!」
 手拍子とともに声が上がる。
「ありがとう、じゃご要望にお応えしてもう一曲。ウチのキーボーディストがシメます」
 わあっと歓声がひと際大きくなった。聴こえてきたのは「亡き王女のためのパヴァーヌ」だ。出だしを少しもったいぶるように弾き、すぐにあの美しい主旋律が浮き上がる。
「あの人だ」
 俺は走り出した。
「おい、優輔。どこに行くんだ?」
「ちょっと、あれ見たくて。先に帰ってて」
 呆気にとられた顔で立ち尽くす友人たちを背に、俺は人だかりをかき分けた。キーボードを演奏しているのは、やはり「街角ピアノ」を弾いていた男性だった。俺は最前列で、彼のぴんと伸びた背筋と、鍵盤の上でしなやかに動く指を見ていた。
 曲が終わった。
「またやるからね、よろしく! じゃあね」
 バンドの人たちが機材を片付け始めた。俺はあの男性に恐る恐る声をかける。
「あの…」
 振り向いた彼は俺を見て驚き、すぐにこの前は決して見せなかった笑顔になった。
「君か。どうしたんだ? もう十時になるぞ」
「今日は学祭で。友達がストリートダンスを見に行こうって。それでここに来たら…」
「曲で気が付いたの?」
「はい、弾き方で、きっとそうだと思って」
「へえ、君、耳がいいんだな」
 彼は十数本あるコードを束ねると「俺、帰るわ。打ち上げはパスしておいて」とメンバーに声をかけた。
 思いがけず二人になった。何を話していいのかわからず足元ばかり見ている俺に彼が缶ジュースを差し出し、道端に座った。
「まさか君にここで会うとは思わなかったよ」
「僕もです」
「名前は?」
「佐山です。佐山優輔。高校一年です」
「俺は桐生大和、三十五歳。ヒカリ音楽教室でピアノ講師をしている。今日一緒に演奏していたのは高校時代からのバンドメンバーだ」
「ピアノの先生なんですか」
「声をかけられたときはびっくりしたよ、なんだか君は俺に興味があるみたいだね」
「興味っていうか。毎月同じ日に同じ曲を弾きに来るっていうのが不思議で」
「『街角ピアノ』か。あれは弾きやすい。鍵盤がコロコロ転がってタッチがいいんだ。十一日は毎月有給休暇を取っている」
 彼は缶コーヒーを一気に飲み干した。
「君は誰かと喧嘩をしてこじらせたことがあるかい?」
「喧嘩? いえ、ないです」
「俺はあるんだ。許せなくて腹が立って。二年近く口もきかなかった。そうしているうちに相手に突然死なれたんだ」
「えっ?」
「妹にね」
「妹さん?」
「二年前の冬だ、突然死ってやつでね。俺の二歳下。喧嘩の後始末もしないでいきなり逝きやがった、って感じさ」
「妹さんのことと十一日が?」
「月命日だよ、妹の。菩提寺の骨堂に手を合わせてから市民プラザに行くのさ」
「そうだったんですか」
「でも偉そうに説教する気はないんだけどさ」
「えっ?」
「例えば、こういう経験をすると、同じように誰かとの争いをこじらせている人がいれば『後悔しないように仲直りした方がいいよ』なんて言いがちだろう?」
「桐生さんは後悔していないんですか」
「してないよ。一番後悔しているのはあいつだってわかってるからさ。俺は長い間、親族や友人の前であいつに徹底的にバカにされ、笑いものにされて傷ついてきた。一度や二度じゃない。それが原因で体調を崩したことも何度もある。ある日堪忍袋の緒が切れた。あんなにあいつに面と向かって怒りをあらわにしたのは初めてだった。妹もこの街でバンド活動をしていたから仲間は俺や妹の性格はわかっていた。みんな『お前は悪くない』って言ってくれた」
「そんなことがあったんですね」
「でもさ、ふと考えたんだ。もし俺があいつより先に逝っていたら、今の俺以上に妹は哀しんで落ち込んで、しばらく立ち直れなかったんじゃないかってね」
「妹さんもピアノを?」
「いや、あいつはギター。俺が教えた。中学生の頃だったかなあ」
「桐生さん、ギターも弾くんですか」
「器用貧乏ってやつでね、バンドセッションで使う楽器は全部そこそこ演奏できるよ」
「へえ」
「君が初めてだ」
「僕が?」
「妹のことを本音で話せたのは。バンド仲間系では俺とあいつの喧嘩、有名な話だったから。だから気遣ってくれる人が沢山いてありがたかった。それでも自分の思いが定まっていないから本音を言えなかった」
「どうして、僕に?」
「君はわかってくれたからさ。俺があの曲を弾いた時『綺麗だけど哀しい感じ』って言っただろう」
「美しすぎて哀しいってイメージだったんです。あれは妹さんが好きだったんですか?」
「いや、クラシックピアノはわからない奴だった」
「桐生さんがあの曲にしたのは理由があるんですか?」
「王女って題名についているから、なんとなく妹に合っているかな、なんて思って。そういえば君と同じでピアノはなんにもわからないくせに俺の演奏によく難癖つけたよ」
「何故そんなに突っかかったんでしょうね」
「俺もわからない。でもあいつの通夜の晩に仲間が言ってたことが腑に落ちたんだ」
「なんて…」
「『明日香は甘えていた、大和はなんでも許してくれるって我儘をぶつけていた』って」
「甘え?」
「ああ。『兄ちゃんはピアノもギターも弾く、趣味の執筆活動で何回も新聞に載ったんだっていつも自慢してた』と」
「お兄さんが大好きだったんじゃ?」
「そうらしいね。でも素直に表現することができない女だった。『明日香はお兄ちゃんLOVEだった、だから許してやって』って仲間に言われた時は俺、号泣したもん」
 彼は腕時計を見た。
「ひとつだけ後悔しているのは、あいつが俺に謝る機会をつくってやれなかったことかな」
 彼は立ち上がり、両手を挙げて伸びをする。
「十時だ。君、帰らなきゃ家の人が心配するんじゃないか? 家はどの辺?」
「はい、東小学校の近くです」
「俺の家と近いな。送るよ。駐車場に行こう」
 俺は黙って彼の後をついていった。大通りのコインパーキングの前に来ると、急に自分はここにいてはいけないような気がしてきた。
「あの、やっぱり歩いて帰ります」
「えっ? もうバスはないぞ」
「今日はありがとうございました。来月ピアノを弾きに来るのを楽しみにしています」
 頭を下げると俺は走り出した。小さなスナックやバーが立ち並ぶ小路を抜けて。
「おい、佐山くん!」
 背中で彼の声がするが、振り向けなかった。
 涙でぐちゃぐちゃになった顔をあの人にだけは見られたくなくて、俺はただひたすら西に向かって走った。

※4年前に私も喧嘩中だった弟を突然死で喪いました。
 喧嘩は弟の毒舌が原因だったし、堪忍袋の緒が切れたのもこの「桐生大  和」と全く同じシチュエーションでした。それでもやっぱり弟だからなぁ…なんて思いながら男女を逆にして書いてみた短編です。


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