見出し画像

外す手

頬に突き刺さるような冷たい横風に、コートの襟を立てて私は、冬の海を見ていた。
 寒さ故に凍らないI島周辺の海は、風に乗って舞う雪を音もなく吸い込んでゆく。
 それにしても、何故、私はここに来たのか。夕暮れの迫る冬の海で考える。考えて考えて、行き着き頭に浮かぶのは、鈍く光る機械を外した私の右手であった。
 宮脇俊朗は高校時代からの友人である。私は医者になるべく医大へ、宮脇はジャーナリストになりたいと、文科系の大学へ進んだ。卒業後、私は母校の系列病院に外科医として勤務し、宮脇は地元の大手新聞社に就職した。
 職種が違うのが幸いしたのか、社会に出てからも二人の親しいつきあいは続いていた。その宮脇が久しぶりに誘いの電話をかけてきたのは、関西地方が梅雨入りしたある初夏の夕方であった。
「突然すまないな、辻村。いつもの店でいいか?」
 いつもの店とは、宮脇の知人が夫婦で経営するスタンドバーである。
「いらっしゃい、お久しぶり」
 マスターが出迎える。
「ちょっと、話がしたいんだ」
 宮脇がそう言うと、マスターはコースターを一番奥のテーブルに置いた。ママがボトルを置き「ごゆっくり」と言って裏に入った。私は、氷がグラスの中でカラコロと鳴るのを楽しみながら、水割りに口をつけた。
「辻村、実は今夜はお前に相談したいことがあるんだ」
「お前が病院にまで電話をしてくるくらいだ、多分そうだろうと思っていたよ。どうしたんだ?」
「実は…お前に頼みたい患者がいるんだ」
「なんだ、診察依頼か。もっとすごいことかと思ったぞ」
「お前に頼みたい患者は香織だ」
「香織さん?」
「末期癌だ」

 香織は宮脇の一歳下で、今年四十六歳である。楚々としていてよく気が付き、新聞社勤務という不規則な生活を強いられる宮脇によく尽くしている。
 その香織が末期癌だという。
「去年の暮れから胸の痛みがあって、おさまらなかったんだ。それでF医大付属病院に行ったら乳癌だと言われて、その場で入院さ。精密検査の結果が出たと言われて病院で説明を受けたら、手遅れだと宣告された」
「手術は?」
「できないと言われた。この状態で手術したら死期が早まると」
「転移していたんだな?」
「胃と肝臓に癌細胞が認められた」
「本人は知っているのか?」
「告知を希望したから、わかっている。仕事の絡みがあるからな」
 香織は料理教室の先生である。最初は町内会や小学校などに呼ばれて、ケーキ作りなどを指導していたのだが、最近では複数の団体から講師を頼まれ、カルチャーセンターや、市の季節料理教室などでも教えている。
「香織が休むとなれば別の講師が必要だし、教室の存続にも関係してくるんでね、本人が最初から告知を希望したんだ」
 宮脇の煙草がほとんど吸われないまま、灰になってゆく。グラスの向こうで揺れる紫煙が歪んでいる。
「そうだったのか…。それで俺に香織さんのことで頼みたいというのは、どういうことなんだ?」
「それなんだが、実はF大の担当チームから転院か退院してくれと言われたのだ」
「転院か退院? 何故だ?」
「決まりらしい。入院して六か月が経過しても病状に変化がないとか、回復の見込みがない場合は、病院を移るか退院するか。転院する場合、その療養先は患者側が探すことになっている。市内のホスピスに問い合わせてみたが、入院待ちの患者は五十人くらいいると言われた」
「そんなバカな!」
「決まりと言われた以上、仕方ないんだ。大学病院は研究と教育の機関だからな。香織のような患者がいつまでもベッドを独占していても、どうしようもない。入院承諾書にも書いてあった。こんなことになるとは思わなかったから、よく読まないでサインしてしまった」
 そういえば聞いたことがあるような気がする。大学病院では治療経過に改善や変化がない場合、半年を目途に病院を移ってもらう場合があると。
 自宅療養するとしても、宮脇夫妻の娘は東京の大学に在学中で、ほかに子供はいない。宮脇と香織の両親は年老いている。身内で看病するのは難しい。
 家政婦を頼むとしても、看護や医学の心得がなければ無理だろう。
「そして、転院先はまだ決まっていないんだな?」
「ああ、お前ならどこか知っているんじゃないかと思ってな」
「わかった、俺の病院で引き取ろう。俺の病棟に入院してもらう」
「辻村、ありがとう」
 宮脇がカウンターに頭をつけた。
「よせよ、恥ずかしい。頭なんか下げるな」
 宮脇の涙が静かにテーブルに落ちる。その小さな粒は彼の感情とは別に、自然に押し出されたような水滴に見えた。

 半年ぶりに会った香織は痩せてしまっていた。
 笑うと優しく現れるエクボも、年齢より若く見える大きな目も昔から変わらないのに、肩先から下が薄く、細くなっている。
「香織さん、体調はいかがです?」
「気分はいいのですが最近、食べ物が喉を通りません」
 癌が食道に転移したかもしれない。食道癌に通過障害は比較的初期に出てくる症状である。
「F医大からレントゲン写真とカルテのコピーが届きましたが、それとは別にこちらでも検査があります」
「はい、よろしくお願いします」
 香織の枕元には、料理の先生らしく、イタリア料理やロシアのお菓子、和食調理の基本などの本が積まれている。
 私は医局へ戻り、伊藤外科部長に香織の入院と経過、治療方針を報告した。
「友達の奥さんか。辻村、これは辛いぞ」
「はい」
「延命治療の有無は? これから確認か?」
「検査終了後の説明の際にと考えてます」
「そうか。では変わったことがあれば、その都度報告だ。だが、いいか。情はかけるなよ」
 これで私は正式に香織の担当医となった。少しだけ気が重かった。

 香織の体調に合わせて必要な検査をいくつか行った。検査を進めるほどに私は、香織の体内を探ることに嫌気がさしてきた。親しい友の、愛する妻が、やがて死を迎えようとしているのが明確に見えてしまう。癌細胞が確実に死を引き寄せる。
 最初の問診で懸念していた通り、食道に癌が転移していた。放射線治療も期待できそうにない。検査結果が出揃った翌日、私は宮脇を呼んだ。
「延命治療に関して意思確認をしたいんだが…」
「やってくれ、香織は本を出すと言っている」
「本を?」
「子供のための料理入門本だ」
 私は香織の病室にあった、数冊の料理の本を思い返していた。
「じゃ延命については本人にも確認した上で承諾書を書いてもらう」
「わかった。色々すまないな」
「だから、やめろって。俺は医者として患者を引き取り、治療しているだけなんだから、頭なんか下げないでくれ。どうも…照れるんだ」
「そういうものかな…?」
「そういうものだ。明日から抗癌剤の投与を始める。副作用がきついかもしれない。支えてやれ」

 香織が入院して二か月が過ぎた。初夏の花は病院の中庭で散っていた。夏の花もそろそろ終わりそうな気配である。私は、午後香織の病室へ行き、宮脇が来たら説明することがあるのでナースステーションに来て欲しいと告げた。
 夕暮れ時のナースステーションは、心なしかざわめく時間帯である。五時を過ぎると、まずパートの日勤看護師が帰り支度を始める。正職員の看護師は日勤と準夜勤の交替時間で、申し送りと呼ばれる引継ぎが行われる。 
 時間内に処置などが終わらない患者にパート看護師が関わっている時は、手の空いた正職の看護師が交代をする。パート看護師に残業させないためである。
 宮脇がナースステーションに来たのは、そんなざわめきが終わりかけた午後五時半過ぎであった。香織はドアの外側で待っていた。
「面談室へ行こう」
 私は宮脇の返事を待たずに、カルテとレントゲン写真を抱え、看護師一人を伴ってナースステーションを出た。
「F医大から回ってきたカルテには、今年の一月の段階で余命十か月から一年と書いてあるが、これは聞いているんだな?」
「ああ、香織と一緒に説明を聞いた」
「逆算すると、あと二、三か月でしょうか?」
「もしかすると、それより早いかもしれない」
「辻村、どういうことだ?」
 私は香織が同席していることで言葉を選んでいた。
「辻村さん、本当のことをお話してください」
 香織は察していたようである。私は覚悟を決めた。
「主病巣は乳癌だが、現段階では転移した方の癌が深刻だ。先日の検査で新たに肺への転移が認められた」
 私はレントゲン写真を撮りだした。
「骨以外にも白いものがあるだろう? これが癌だ。肺のほぼ半分を覆ってしまっている」
「…と、いうことは?」
 私は専門用語を抜き、なるべく悲惨な言葉を言わぬようにして説明を始めた。実際は、そろそろ高熱を出し、体力が弱り、体重が減る。食欲もなくなり、衰弱が激しくなる。抵抗力がなくなるので肺炎を起こしやすくもなる。骨の内部に癌が入り込むと激痛が起こる。痛みを和らげるには麻薬が一番効くが、香織は延命を望んでいる。死期を早める恐れがあるので麻薬は使えない。
 こんな現実を、本人にありのまま告げることはできず、私は時々曖昧な言い方をした。
「じゃ、これから高熱を出しやすかったり、肺炎になりやすかったり…?」
「ああ、だから体調のいい時にできるだけ栄養をつけて欲しい。食べたいものを食べるようにするとか。点滴でも栄養は十分だが、やはり経口の方がいい」
 私の説明と宮脇の質問を、同席した看護師がメモをする。
「延命治療の希望に変わりはありませんね?」
 香織が頷いた。
「わかりました」
 二人が立ち上がった。私がドアを開けると宮脇が思い出したように「由梨が明日、帰ってくる」と言った。
「空港からまっすぐ病院に来ると言っていた」
 そのまま宮脇は背を向けて香織と病室へ帰った。看護師と二人になった面談室は広すぎるように思える。
「先生、宮脇さんとはお友達ですって?」
「ああ、高校時代からな」
「辛いですわね、お友達の奥様がこんな病気で。あのご夫婦も大変でしょうけど、それを最後まで見なければならない辻村先生も大変ですわ」
 私は遠くなる宮脇夫妻の背中を見ながら、本当に辛いことだと思った。

 私が妙な話を聞いたのは、この病状説明から十日ほどが経った土曜の午後だった。
 帰省した娘の由梨が香織の病室に泊まり込んだ。久しぶりに娘と過ごし、香織は少し元気を取り戻していたが、発熱することが多くなった。その上、脊髄への転移が認められ、時折、激しい背中の痛みに襲われるようになった。その頃から宮脇も病室に泊まるようになったが、ここ数日、隣室の患者が変な会話を聞いたらしい。
 この患者は三十歳の男性で、胃潰瘍の手術を受けたばかりである。
「ええ、僕はよく壁にもたれかかってテレビ見るんですけど、壁伝いに『殺して』とか『やめて』とか。昨夜は男の人のすすり泣きも聞こえて。オバケ出るんでしょうかね?」
 私は、この話が変な噂になってはまずいと思い、夜を待って宮脇をデイルームに呼び出した。
「こんな話が出ているんだ。真相はどうなんだ?」
 宮脇はうつむいたまま答えない。
「まさか本当に幽霊が出るわけじゃないだろう」
「おじさま、やめて!」
 ドアの前に由梨が経っている。
「パパは、ママのところに行ってあげて」
 宮脇は黙って背中を向け、病室に戻って行った。
「おじさま、ごめんなさい。ママも病気で大変だけど、パパも別の意味で苦しんでいるの」
「それはもちろん、わかっているよ」
「ママ、発作が起きるとパパに『殺して』って言うのよ、苦しくて」
「殺して?」
「パパはママがあんまり苦しむものだから、注射で発作がおさまりかけると、フラフラとママの首を絞めようとするの。私はそれを止めるのよ、やめてって」
「…そんなことが…」
「ママは苦しいのと、死の恐怖からつい口に出ちゃうだけよ。本心じゃないと思うわ。だって気分のいい時はスラスラ原稿書いてるもの」
 由梨はクスッと笑った。
「私に、一緒に街に行こうとか美味しいもの食べに行こうなんて言うこともあるのよ」
「そうか、わかった。気をつけて見ることにしよう。事情は担当チームに説明しておくから、今度そういうことがあったらナースコールしなさい」
 由梨は笑顔で頷いた。頬に涙が一筋流れた。
「これからが大変だ。明日から病室に刃物や紐類は置かないようにしよう。困ったことがあったらすぐ僕に言うんだ。わかったね」
 私は由梨の肩を抱き、香織の病室へ向かった。香織は熱と発作で小さくなった顔を枕に埋めて眠っている。宮脇はベッドに背を向けて、窓の外を見ていた。
「全部聞いたよ。気持ちはわかるが俺の病棟だ。二度とそういうことはしないでくれよ」
 私はそれだけを言うと病室を出た。

 数日後、回診を終えると看護師が「宮脇さんがお話したいそうです」と言いに来た。私は少し待ってもらうように伝えてもらい、カルテを片付けた。
「待たせてすまない」
「俺こそ、忙しいところ悪いな」
「どうした? 何かあったか?」
「なあ、辻村。香織はこれからもあの発作に苦しむのか?」
「…うん…まあ…」
「いいんだ、はっきり言ってくれ」
「正直に言うと、多分、香織さんが死ぬ時は、あの発作に体が耐えられなくなった時だと思う」
「じゃ、死ぬまで続くのか?」
「末期癌の患者は大体そうだ」
「辻村、お恥ずかしい話だが、もう限界だ」
 覚悟はしたはずなのに、苦しみ、痛がる姿を見て、気弱になったのであろう。発作も、こんなに大変だとは思わなかったのかもしれない。
 延命治療を申し出た時点で、私は機械での処置を始めていた。香織の病室には酸素テントや吸引器具、酸素ボンベ等を常備してある。
 痛みを和らげるためには麻薬の投与が有効だが、死期を早めるので使わずにいた。
「辻村、香織の痛みを止めて欲しいんだ」
「痛みを?」
「麻薬を打ってくれ」
「なんだって? お前、本気なのか?」
「本気だ」
「香織さんは納得しているのか?」
「していない。俺の考えだ」
「麻薬を投与すれば死期は早まるんだぞ」
「もういい、見ていられない」
「じゃ延命治療の同意書はどうするんだ? これがあるから俺は、麻薬を使わないで治療しているんだぞ」
「それで何日変わるというんだ」
「何日?」
「麻薬を打たなければあと二か月、麻薬を打ってあと二週間なら、俺は二週間でいい」
「宮脇…」
「お前には感謝している。だが本当にもう限界だ」
 わかるような気がした。笑顔の優しい、美しい香織が、発作のたびに眉をしかめ、激しく咳込む。顔中、涙と鼻水だらけにして、髪を振り乱し、「痛い、苦しい、早く殺して」と泣き叫ぶ。
 強力な鎮痛剤も効かず、胸をかきむしる香織を見ると、私でさえ早く楽にしてやりたいと思う。
「考えておこう。約束はできない」

 翌日、医局で伊藤外科部長に宮脇のことを話した。
「辛い現状はわかるが、担当チームに正式な要請がないのなら延命治療方針は変えられないな」
「そうですね、まだ調子のいい時があるから踏ん切りがつかないんだと思います」
「だろうな。とにかく、まだ麻薬は駄目だ」
 伊藤はそう言って煙草をもみ消すと、医局を出て行った。私は灰皿をベランダに持ち出し、煙草に火をつける。木製の手すりにもたれかかって空と中庭を交互に見てみる。どちらも夏の名残を残しながら、秋の気配を漂わせていた。

 九月初旬、突然に気温が下がった。病棟でも何人かの患者が風邪をひき、内科往診を願い出ていた。香織の容態が悪化したのは、その日の午後であった。
 この日、当直明けで自宅に戻っていた私は、その知らせを妻から聞いた。
「高熱で呼吸困難を起こしているそうよ」
「電話は誰から?」
「伊藤先生でした」
 私は病院に電話し、ナースステーションを呼んだ。チームの看護師が電話に出る。
「辻村先生、宮脇さん、血痰が多量に出て、今は伊藤先生が吸引してくれています。発作ですが解熱剤もモルヒネも効かないようです」
「わかった、すぐ行く」
 寝不足で頭が重かったが、そうも言っていられない。

 ドアには面会謝絶の札が掛けられている。宮脇と由梨は廊下で待っている。病室に入ると室内は酸素吸入器の音だけが低く響いていた。
「部長、ありがとうございます」
「少し落ち着いたようだ。肺炎を起こしかけているので抗生物質を注射した。血痰だが病理検索に出しておいたぞ。延命治療のヒントは摑めるかもしれない」
 その発作から数日、香織の状態は落ち着いていた。発作は相変わらずだが、少し食欲が出てきた。
「ずっとこうだといいんだが…」
 宮脇がつぶやくが、医師である私は断末魔の苦痛がまだ香織を襲い続けることを知っていた。
 一週間後、伊藤外科部長が海外へ長期出張に出かけた。医局での打ち合わせを副部長が代行していると、病棟から内線電話が入った。看護師が香織の発作を告げる。
 打ち合わせを中座して私は病棟に走った。病室では伊藤が指示して運び込んだ酸素吸入器が作動している。
 香織は目に涙をため、力なく「痛い」とつぶやいた。
「辻村…」
 宮脇が頭を下げた。由梨が私の目を見る。香織の意識は朦朧としている。
 長く静かな時間が病棟に流れた。
 私は機械のスイッチを切り、マスクを香織の口元から外した。目を見張る宮脇親子をそのままに薬庫へ行くと、麻薬持ち出し許可証にサインをして、オピアトをポケットに入れた。
 病室に戻る。香織の白く細い腕を消毒液で拭き、注射した。針は深く刺さり、オピアトが吸い込まれてゆく。
 やがて香織は電池の切れた人形のように、ことりと枕に顔を沈め、眠り始めた。
「パパ、嘘みたい」
「ああ…辻村、これは?」
「オピアトという麻薬だ。激痛が瞬時に消える」
 私は空になったオピアトのアンプルをポケットに戻して部屋を出た。

 数日後、由梨から香織の歯が抜けたと聞かされた。
「ほら、おじさま。これ、奥歯よ」
「強い薬だからね」
「でもママが苦しまないから、気持ちは楽だわ」
 その後も香織には何度か麻薬を使った。私以外に麻薬を使う医師はいないので、必然的に病院泊りが多くなった。伊藤の不在で担当患者は増えていたから、都合は良かった。それでも、病棟から「緊急です」と呼ばれれば、ほぼ香織の病室であった。
 香織に麻薬を使うようになって一週間目、私は回診で焦点の合わない香織の目を見てたじろいだ。あらぬ方向を見てほほ笑む香織に、私は声をかけられなかった。
 看護師にそれを話すと、そういえば洗髪の時、急に白髪が増えたように思いましたと言った。

 香織が危篤になったのは九月中旬であった。宿直室で仮眠していた私は電話で起こされ、病室へ走った。
「血圧は?」
「測れません」
 私は冷静に病室の中を見渡した。呼吸困難なら酸素吸入しなければならない。機械も酸素テントもある。だが私は使わなかった。
「先生!」
 看護師は私の指示を待っている。
「カンフル、急いで」
 この状態ではどの薬も駄目かもしれない。看護師が注射器を持って戻ってきた。同時に香織の下顎ががくんと落ちた。
「ママ!」
 由梨の叫びは香織の死と同時だった。私は香織の手首を持ち、痩せた胸に聴診器を当てた。脈はもう測れず、心音は小さく遠去かり、やがて聞こえなくなった。
 一礼して部屋を出る。由梨の泣き声が廊下に響いた。

 数日後、伊藤が海外出張を終え出勤した。打ち合わせのあと、私に「留守中、変わりはなかったか」と聞く。
「305号室の宮脇香織が九月二十日死亡しました」
「死んだ? 早かったな。まだ大丈夫だと思ったが」
「オピアトを投与したので早まったと…」
「なに? 麻薬を? 延命希望じゃなかったのか?」
「気が変わったようです、家族が」
「本人ではないんだな?」
 私は目を伏せた。
「お前は自分が何をしたのか、わかっているのか?」
「はい」
「これは安楽死だ。家族が望んでも本人に意志がなければ駄目だ。あの体に麻薬投与だと? 死ぬに決まってるだろう。法的に認められるわけがない」
「法的に?」
「本人の希望と家族の同意、医師の手によること、苦痛がないこと。これが安楽死の鉄則だ」
「おかしいと思います」
「何がだ?」
「何故、医師がやるんです? 私は命を助けるために医者になった。なのに法律に保障されて人殺しなど…」
「世の中割り切れることばかりじゃない。この件は院内処分になるかもしれない」

 宮脇から電話が来たのはその少しあとであった。
「昨日病院からお前の治療を確認された。何かあったのか?」
 私はかいつまんで今回の件を説明した。
「俺が頼んだことだ、俺が病院へ行って話をする」
「いいんだ。俺は香織さんに確認しなかったからな」
「俺には何も言う資格はないのか?」
「最初から、そんなものはない。俺は医者なんだ。誰が頼んだとかじゃない。経過とその結果なんだ」
 その翌日、私は伊藤に呼ばれた。
「処分が決まった。十二月から半年、I島の診療所へ行ってくれるか」
「I島?」
「常勤の外科医が足を折ったらしい。内科医が所長で俺の同期だ。島田という」
「わかりました」
「これは院内処分と俺からの制裁だ。俺はお前をまだ許したわけではない」
 私は伊藤の顔を見た。
「自分一人の考えで患者の寿命を決めるな。今後もだ」

 十二月、私はI島に単身赴任した。桟橋から見る海は大きく暗い。診療所はまずまずの広さである。一緒に働く予定の島田医師に挨拶すると、彼は笑顔で明日は君の歓迎会だと言った。
 診療所を出て下宿に帰ろうとすると、島田が走って追いかけてきた。
「すまん、これを忘れていた」
 島田が封筒を差し出す。「餞別 伊藤」とあり、十万円が入っていた。
「なんだかんだ言っても、あいつは辻村君がかわいいんだろうな。いきさつは聞いたが院内処分はもっと厳しかったようだ。伊藤の取りなしでこの島での勤務になったらしい。半年のがまんだ」
 私は封筒を受け取り、下宿に帰った。
 夜中、慣れない波音に寝付かれず、外に出た。冬の砂浜を一人で歩いてみる。伊藤は自分をかばってくれた。多分、宮脇も何らかの形ではたらきかけたのだろう。なんだかケリがついていないような気がした。私はまたどこかで、香織と同じように患者の死期を早めてしまうかもしれない。
 そこまで考えて私は、任期が終わってこの島を出たら、違う病院に移ろうと思った。

※2007年発刊の地元市民文藝に入選した短編です。
 読み返すといくつか直したいところもありましたが、敢えて修正せず投稿
 します。思えばこの頃は医療小説にハマっていたなぁ…


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?