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影が重なる

 一月下旬の晴れた午後。私は道東プラザの小ホール前ロビーで”あの人”を待っていた。
 ここは毎年、地域で一番大きな楽器店が主催するイベント「大人のピアノおさらい会」が開催される会場である。
 去年のその日、私は落ち込んでいた。子供の頃に習ったピアノを二年前から再開し、先生に勧められて出たこの会で何か所か間違えてしまい少しだけ演奏が止まったのだ。
「ああ、またお姉ちゃんにバカにされる」
 情けなさから涙が出そうだった時、声をかけられた。そこには五十代くらいの女性がご主人と思われる男性と並んで立っていた。
「突然すみません、素敵な演奏でしたね」
「えっ? でも間違えて止まっちゃって」
「気になりませんでしたよ、ひとつひとつの音を丁寧に弾いていたし楽譜に忠実だったし」
「はあ…でも…」
「ピアノ、習っていたんですか?」
「はい、小学生から高校生まで」
「やっぱり。指づかいが綺麗だったからそう思ったんです」
 運指法や楽譜の読み方を知っているのだからこの人もピアノを弾くのだろうか。思い切って尋ねると「子供の頃に習っていて十年前に再開したんです」と言った。
「今年は出場しなかったんですか?」
「ええ、見るだけにして出るのは考え中で」
「あの、私また出ます。来年出てください」
 私は初対面の人にそんなことを言ってしまった。だが思いがけず「はい、是非」と笑ってくれた。
 私はもう姉のことを忘れていた。
 
 四歳違いの姉、真由は、小さな頃から両親の自慢であった。それは本人も自覚していたので、何かにつけて私を見下していた。同じ二人姉妹の友達はみんな仲がいいのにどうして私だけ? とその理不尽に苦しんだ。
 成績がよく、所属していたスイミングクラブではトップクラス選手で社交的な真由。反して、勉強は中くらい、運動はどれも苦手で引っ込み思案の私。対照的な姉と妹。
 そんな私だったが小学校に入学し、音楽の授業で与えられた鍵盤ハーモニカが面白くて夢中になった。教わっていない歌も、鍵盤をいじっているうちに弾けるようになり毎日遊んだ。それを見た祖母が「ピアノを習わせてみたらどう?」と言ってくれた。
 その年の夏、近所のピアノ教室に通い始めた。アップライトのピアノを祖母が買ってくれた。学校から帰ると宿題を済ませて夕食まで初めての教則本「バイエル」を弾く。
 はじめのうちは「曲って感じがしない課題ね」と言った母も、過程が進み綺麗な曲が出てくると褒めてくれた。休日には父も私が練習している様子を見てくれた。
「発表会、出られるのか? 見に行くぞ」
 けれど、真由は私がピアノを弾き始めると
「うるさい!」とか「勉強の邪魔!」などと言い嫌な顔をする。
 自分に縁のない分野だからなのか、いつも一歩引いている妹がピアノを弾く時に堂々としているのが気に入らないのか、練習の邪魔をする。
「ピアノなんていくら上手になったってなんにもならないでしょ。勉強もできないくせに」
 決まり文句はいつもこれだ。次第に私は、真由が家にいる時にはピアノを弾かなくなった。母は教室の宿題をしない私を注意した。
「だって真由がうるさいっていうんだもん」
 やっとの思いで訴えたが「気にしすぎる美優も悪い」と片付けられた。それでも真由には「美優のピアノ練習中は我慢しなさい」というようなことをやんわりと忠告したので、表立って嫌味を言うことは減った。
 だが、その鬱憤を晴らすかのように発表会になると今まで我慢していた文句を集大成にし、徹底的に攻撃するようになった。
「なに、あれ? 今日弾いた曲。最後の音を間違ったんでしょう?」
 私は、あれは不協和音というもので、合わない音を組み合わせて弾くのだと説明し、反論したが、言い訳をするなと更に意地悪なことを言う。
 翌年の発表会ではモーツァルトのソナタを弾いたのだがそれもからかわれた。
「同じメロディーばっかり繰り返して弾いて、途中で飽きちゃったよ」
「でも、ソナタってそういう形式の曲なんだよ? 主題があってそれを転調するの。だから同じフレーズが調を変えて出てくるんだよ、楽譜の通りに弾いているのに」
「楽譜の通りに弾けばいいってものじゃないでしょ」
 ピアノのことなど何も知らない真由は、とんでもないところから自分勝手な理論を持ち出してくる。私は毎年繰り返される嫌がらせにうんざりし、発表会が怖くなった。
 次の年、ちょうどショパンの生誕二百周年ということで教室の生徒ほとんどが力量に合わせショパンの楽曲を弾いた。教則本「ツェルニー」の中級に進んでいた私は先生と相談し「マズルカ Оpー7」を演奏することになっていた。
 この頃の真由は中学生で勉強量が増え、部活動の水泳部では練習も厳しく、自分のことで精いっぱいだった。家で顔を合わせる時間も減り、ピアノに関する嫌味も私に言わなくなっていたので安堵していた。けれどこの発表会で私は、その考えが甘かったことを思い知った。
 両親や祖母と一緒に来た真由は、私が客席から控室に移動する直前に言い放った。
「ああ、楽しみ。しばらく美優のピアノ、聴いていないし。何回間違えるか数えててあげるからね。せいぜい頑張って」
「真由、なんてこというの!」
 祖母が注意し、私には気にしないで弾いてきなさいといってくれたが、情けないことに私は真由の鋭い一撃に委縮し、半年かけて練習した曲をステージ上で崩してしまった。好調だったのは出だしだけで、黒鍵から一度指を滑り落としてからガタガタになってたくさん間違えた。
 口惜しさと恥ずかしさで、私は控室に戻ると先生に抱きついて泣いた。レッスンで完璧に弾いていたのに何故突然崩れたのかと聞かれ、私は全てを話した。
「美優ちゃんは何も悪くない、明日お母さんと教室にいらっしゃい。お電話しておくわ」
 帰宅すると真由は鬼の首でも取ったように大きな声でしつこく私をからかった。
「ああー、かっこ悪い。あんなに間違うなんて恥ずかしいったらありゃしない」
 両親や祖母がやめなさいと言っても「本当のことでしょ」と口答えをする。私は泣きながら真由に言い返した。
「楽譜を読めない真由に言われたくない!」
「美優は楽譜を読めるのに間違ったでしょ」
「意地悪ばかり言うならもう来ないで!」
 翌日、母と二人でピアノ教室に行った。レッスン室で先生は母に真由の暴言を告げ、私が委縮して弾けなくなったと説明した。母は謝罪をし、真由にしっかり言い聞かせて発表会には連れてこないと言った。
 これで真由の暴言から逃れられると思ったが、母に叱られた真由は「あの程度で弾けなくなる美優が悪い」と八つ当たりをした。私はピアノを続けたが、発表会に出るのはその年を最後にやめた。
 
 その後、市内の進学校に入った真由は仲間と一緒にS大を受けたが真由だけ落ちた。自尊心の強い真由は両親が勧める予備校通いをせず、そのまま自宅浪人を数年続けた。
 私が高校卒業後に地元の短大に入学した年、真由は大学受験をあきらめアルバイトを始めたが、勝気な性格が災いしてどこの職場でもうまく人間関係を築けずすぐ辞める。
 結婚願望もあったようだが、仕事が続かず実家を出られずにいた上、友人は大学や専門学校を終えて、既に就職していたので話が合わない。付き合いは自然となくなって人脈が狭くなり、ご縁にも巡り合えずにいた。
 一方私は短大で保育士資格を取得後、市内の保育園に就職した。高校生まで続けたピアノは仕事に大いに役立った。趣味で入った音楽サークルでは鍵盤楽器を担当し、友人もたくさんできた。
 二十七歳の時、音楽イベントで知り合った片岡優輔と一年交際した後結婚した。翌年娘が産まれ奈央と名付けた。たまに子供を連れて実家に顔を出そうかとも思ったが、真由がいると思うと気乗りしなかった。
 奈央が小学校に上がった年の夏、祖母が他界した。百歳の大往生であった。買ってもらったピアノは定期的に調律をし、大事にしていたが、本格的にクラシックを弾くことはなかった。
 ショパンで崩れたあの発表会から出場をしていないので人前でピアノ曲を弾く機会もなかった。もう一度習おうか、と思い優輔に相談すると賛成してくれた。
「自宅で奥さんの生演奏が聴けるって最高だな。それにおばあちゃんも喜ぶよ」
 子供の頃通っていた教室がまだあったのでそこでレッスン再開を決めた。先生は私を喜んで受け入れてくれた。
 昔教わった譜面上の記号解釈や運指法に戸惑ったのは半年ほどで、カンが戻ると以前よく弾いていたモーツァルトやベートーヴェンをスムーズに弾けるようになった。そんな時、先生がある案内を見せながら言った。
「光楽器で一年に一度大人の生徒を対象におさらい会を開くの。出てみない?」
 優輔に話すと「出てみたら?」と言う。
「間違ってもいいでしょ、プロのリサイタルじゃあるまいし。練習の成果を見てもらうだけだよ。気になるならお義姉さんを呼ばなければいいんだよ」
「そうね。ところで何を弾こうかなあ」
「俺、テンペストの三楽章がいいな」
「テンペスト」とはベートーヴェンのピアノソナタ第十七番である。第三楽章はドラマティックな曲調で私も好きな作品だ。私はその曲での出場を決めた。
 
 おさらい会当日、客席に優輔と奈央、両親と真由がいた。思わず母に言った。
「言わないでって頼んだじゃない」
「行きたいって言うんだもの。真由だって四十歳よ? 昔みたいなこと、いくらなんでももうしないでしょう」
 母は自分の娘を知らなさすぎる。真由の精神はまだ子供なのに。
 真由が私を見ている。あの目だ。マズルカを弾く前に嫌味を言ったあの顔だ。大好きな粗捜しをこれから始めようとしている姿だ。
「出場者はステージ裏に集合してくださーい」
「ママ、頑張ってね。十五番目だよね?」
 娘の声に励まされ私は控室に向かった。
 出場者は全部で二十人。初参加の私に色々と教えてくれる人がいたり、ほかの人が弾く曲を楽しみにしていたりで雰囲気がいい。
 開演ブザーが鳴り一人目の演奏者がステージに向かう。控室ではみんなが「頑張ってね」と声をかけた。私の番だ。ドアの向こうはスポットライトで照らされている。ピアノの前に立ち、お辞儀をして顔を上げると真由が最前列の中央に席を移して私を見ていた。
「えっ? どうしてあんな席に?」
 言いようのない圧を感じた。ものすごい速さで昔のことを思い出す。譜面台に楽譜を置く手は既に震えていた。気にしないようにしたがやはり委縮して何か所か間違えてしまい、途中で譜面に目が追い付かなくなって数秒間演奏が止まった。哀しい気持ちで弾き終えたが控室でみんなが拍手してくれて救われた。
 全ての演奏が終わり出場者のミーティングを済ませてロビーに出ると携帯に真由からメールが来ていた。
「テンペストって『嵐』って意味でしょう?題名通りに演奏も荒れたね」
 悔しくて涙が出そうなその時に”あの人”が声をかけたのだ。
 
 来るだろうか。本当に今年は出場してくれるだろうか。そう考えていると、階段を上がる女性が見えた。あれは”あの人”だ。そしてまっすぐ私に向かって歩いてきた。
「私のこと、覚えてます?」
「はい、去年はありがとうございました。おかげで今年も出られました、片岡です」
「私も『出ましょう』って言ってもらえて決めました。江藤といいます」
 私は急いでプログラムをめくった。彼女は最後から二番目でベートーヴェン ピアノソナタ 第十七番 第三楽章、とある。
「あの時弾いたでしょ、私、この曲には思い入れがあるんです」
 私が真由の威圧感に負けてしまったテンペストを弾く、嬉しくて涙が出た。
「えっ? どうしたの?」
「あ、すみません。実は私…」
 私は勢いで真由のことを話した。江藤さんは目を丸くしている。まずい、初対面に近い人にこんなことまでペラペラとしゃべりすぎた、と思った瞬間だった。
「びっくり、そんな人がほかにもいるなんて」
「ほかに?」
「私も似たような経験があるの」
「江藤さんもですか」
「片岡さんはお姉さんか。私は弟よ。ピアノのこと何も知らないからとんでもない理屈で言い負かそうとするのよねえ」
「わあ、同じです、本当に似ています」
「教室の発表会やおさらい会なんて、身内のお祭りみたいなものじゃない? 上手になったね、頑張ったねって。楽しく盛り上がっているところにケチつけたり多少のミスをしつこく責めたり。つまんないわよね」
「でも江藤さん、すごいですね。強いんですね。負けずにピアノを続けているなんて」
「全然。強くないわよ」
 江藤さんは笑いながらあっさりと言う。
「病院送りになったもん。知ったかぶりの弟に散々口で攻撃されて精神的に追い詰められたの」
「病院送り…そんなに…」
「私だけじゃなくほかの生徒さんに『成長しない』とか先生のことを『指導力がない』とか、延々と言われちゃってね」
「そんなことを…」
「優劣とか勝ち負けとかじゃないのにね。好きで続けて、上手になりたくて習って。頑張っているだけなのに。ピアノに限らず、ダンスでもお習字でも三味線でも同じよね、それを粗捜ししてバカにするって淋しい人ね」
 スタッフが開場を告げた。
「さ、行きましょ。お姉さん来ているの?」
「多分…。江藤さんの弟さんは?」
「今日のことも話してないわ。何年も呼んでいないの。もう体調崩したくないしね」
 控室はにぎやかだった。江藤さんは顔見知りが何人かいて声をかけられていた。
「片岡さんはラフマニノフね、頑張ろうね」
「はい、江藤さんのテンペスト、楽しみです。思い入れ、あるんですよね?」
「この曲を弾いた時にやられたのよ、弟に」
「えっ?」
「間違ってね、数か所。徹底的に言われて。でも、私たちの真実は『頑張って弾いた』ってことだけ、そこは自信持っていいのよ」
 控室にライトが当たる。照明点検だ。一瞬、私と彼女の影が重なり、それまでちらついていた真由の顔が消えた。濃くて長い江藤さんの影と淡く小さな私の影が白鍵と黒鍵に見える。長くなったり、短くなったりする影を見つめていると開演のブザーが鳴った。
 
 
   
※2020年の冬に地元新聞に掲載された短編です。
実はこの作品、結構実話が絡んでまして…ピアノ演奏でのミスを延々とからかわれ責められ体を壊したのは私。からかったのは弟。和解する前にこの作品が紙面に載る前急逝しました。
一番読んで欲しかった人は弟でしたね…「ピアノってこういうもんだよ。知ったかぶりしてからかってんじゃねぇよ」って言えたらなあ、そしたら謝ってくれたかな。そうなれば仲直りもできていたかもしれないのにな…と、久々に読み返して改めて思いました。
さて「あいつ」は…今頃空の上で姉への暴言を後悔しているのか謝りたいと思っているのか。
やっぱり「ホントのことじゃん」って開き直るか…。
…と色々考えてしまう。
短編というより私小説に近いかもしれません。

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