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誰かを、呼ぶ声


 ミヨちゃんは、今日も誰かを呼んでいた。

83歳のミヨちゃんは、私が看護助手として働いている総合病院の最上階にいた。
愛嬌のある可愛らしい顔つきが職員の間では評判で、「ミヨちゃん」と、ちゃんづけで呼ばれても違和感はない。
ミヨちゃんがこの病院に入院したのは、ちょうど1年前の冬だった。
自宅玄関前で転倒し、足の骨を折ったのだった。救急車で運ばれてきたミヨちゃんは、緊急手術を受けた。骨折の手術は成功し、体力の回復と共にリハビリを始めたが、ミヨちゃんは訓練には消極的だった。
「どうせあの世が近いのに、歩く練習なんてしなくてもいい・・・。」
家族が用意した歩行訓練用の靴は、病室に持ち込まれてからわずか2週間後にベッドの下に押し込まれ、少しずつ埃をかぶっていった。

1日中ベッドに寝たきりになってしまったせいか、ここ半年ほど認知症と思われる症状が出てきた。体質上、入れ歯が合わないミヨちゃんの食事は、点滴と流動食に限られてしまった。
食べ物に苦労した世代の人だけに、口に入れるものがないと不安なのだろう。私の顔を見ると「ねぇ、何か食べるもの頂戴」とおねだりするようになった。
最初は担当助手か看護士にしか発しなかったおねだりを、清掃員や施設管理員、同室の患者の付き添いにまで求めるようになった時、担当チームとミヨちゃんの家族で話し合って大きな哺乳瓶を与えてみた。
 
おねだりが始まると、ミヨちゃんの口元に哺乳瓶を近づける。取っ手のついたプラスチックの哺乳瓶には、冷たい水が入っている。チュッ、チュッと音を鳴らして満足気に水を飲むミヨちゃんのつぶらな瞳は、童女のようだった。
そんなミヨちゃんが、たった一言だけ、涙ぐみながら叫ぶ言葉があった。
「ト・オ・ル・・・・」
その名を呼ぶときのミヨちゃんは、いつも正気だった。
長い年月を経て刻まれた深い皺の中に、一筋の涙が流れてシーツの上に落ちた。
トオルという名の息子さんかお孫さんでもいるのか、それとも20年ほど前に亡くされたというご主人の名前なのか。それを直接、ミヨちゃんに問うのは難しかった。

ある冬の日、ナースステーションでミヨちゃんの病室の場所を聞く若い女性がいた。ちょうどそこに行くところだった私は、この女性を案内しようと声をかけた。
「あら?陽子・・・?紫賀陽子さんじゃない?」
女性は私の名を知っていた。そういえば、見覚えのある顔だ。
「陽子だよね?私、高校で同じクラスだった藤野有紀よ、覚えてる?」
「あぁ、有紀、覚えてる!久しぶりねぇ、今日は誰かのお見舞い?」
「ひいおばあちゃんがここに入院してるの。藤野ミヨっていうんだけど、病室がわからなくて・・・」
「藤野ミヨさんなら私の担当よ。案内するね」
私はナースステーションに断りを入れ、有紀と二人でミヨちゃんの病室に向かった。ミヨちゃんの部屋は最上階の一番東に位置する大部屋だった。
ドアをノックし、有紀と病室に入った。
「ミヨちゃん、有紀ちゃんがお見舞いにきてくれたよー」
耳の遠いミヨちゃんに大きな声で話しかけた。
「・・・あんた誰?ねぇ、なにか食べるもの頂戴」
有紀は、幼い頃からかわいがってくれたひいおばあちゃんに顔を忘れられたショックを隠せず、泣いてしまっていた。
「有紀・・・」
「ごめんね、久しぶりに会ったのに泣き顔見せちゃって・・・実は私、今年の秋に結婚することになったの。それを伝えたかっただけなのに・・・」
「最近、もの忘れがひどくて・・・。でも、いつもじゃないの、タイミングがあって・・・」
有紀には残酷かもしれないが、現実を知ってもらうのも仕事のうちだ。
枕元の小さな熊のぬいぐるみを抱きしめるミヨちゃんに、有紀は小さな声で「またね」と言い、病室を出た。

その日、昼休みを利用して、有紀と昼食を共にした。
病院内のレストランなのでお客は病院職員か付き添いの家族くらいしかいなく、昼時だというのに比較的すいていた。
「まさかひいおばあちゃんが陽子にお世話になってるなんてね」
「可愛いおばあちゃんだって評判なのよ。それでみんなミヨちゃんって呼ぶの。それより有紀、結婚が決まったなんてよかったじゃない、おめでとう」
「ありがとう。せめてお式だけでもひぃおばあちゃんに出席して欲しかったんだけど、あの様子じゃ無理ね・・・」
医師の診断はともかく、こういう場合は肉親の目の方が的を得ている。どう考えても今ミヨちゃんがひ孫の結婚式に出席するのは不可能だ。
淋しい話題を避けるように、そのあとは思い出話に花を咲かせ、昼休みが終わろうとしていた。
「ところで有紀、ミヨちゃんのご主人は?」
「20年くらい前に亡くなったわ。私が小学校に入学する前の年に」
「息子さんは何人いるの?」
「私の祖父だけで、あとはみんな女よ」
「トオルっていう人、知らないかな」
「トオル・・・?いないわ、孫にもひ孫にも。それがどうかしたの?」
私は、ミヨちゃんが正気に戻った時、いつも涙を流しながらその名を呼ぶことを、有紀に打ち明けた。
 
時々、タイミングを見計らって「ミヨちゃん、トオルって誰?」と聞くと「トオル・・・知らん・・・知らん・・・」そう言ってそっぽを向く。
うっすらと涙を浮かべてトオルさんを呼ぶ声は、いつも切なく私の胸に響く。涙と目脂のたまった目元をガーゼのハンカチで拭いてあげると、ミヨちゃんは安心したようにすやすやと眠ってしまう。
そんなことを話しているうちに、昼休みは終わろうとしていた。

3月中旬、突然この街を寒気が襲った。暖かい日が続いたあとの思いがけない寒さに、体調を崩す患者が多かった。私の担当病棟でも、何人かが咳や発熱などの症状を訴えていた。
ミヨちゃんも、急激に気温が下がった夜に発熱し、激しく咳こむようになっていた。
集中的な治療が必要なため、家族の了解を得て通路をはさんだ反対側の個室に、ミヨちゃんを移した。自分で痰を吐き出す力が弱いので、一日に何度も吸引しないと、痰が詰まって窒息する恐れがあった。点滴や注射で回復を期待したが、ミヨちゃんの症状は好転せず、発熱から1週間後、レントゲン撮影をした医師は、肺炎の診断を下した。

ミヨちゃんの容態が急変したのは、寒気が少し緩んだ雪の夜だった。
呼吸が苦しげで、肩で息をしていた。酸素マスクで呼吸を助けるよう試みたが、思ったより効果はなかった。深夜、氷枕を取り替えようとした私の腕を、ミヨちゃんが突然掴んだ。
「・・・おねえ・・・さん・・・・トオル・・・トオル呼んで・・・おくれ・・・よ」
途切れ途切れに必死で訴えるミヨちゃん。
「わかった、呼んできてあげるね。トオルさん、どこにいるの?」
答えようとしたのか、ミヨちゃんは口を大きくあけた。その途端、激しく咳こんだ。やがてミヨちゃんの細いからだが震え出し、体温は40℃に上昇した。医局から駆けつけた当直の医師が全身状態をチェックした。私は氷枕を手に、窓際に立ち尽くしていた。
「・・・駄目だ・・・」
医師が低くつぶやいた。
「家族への連絡は・・・」
「今こちらに向かっているそうです」 ミヨちゃんは、痩せた両腕を宙に遊ばせていた。
「ト・オ・ル・・・」
動力を失った飛行船のように、ミヨちゃんの腕がばさりと掛け布の上に落ちた。からだに這っていた様々な機械のコードが、看護士の手で1本ずつ外された。心拍停止を告げる電子音が、無機質に響きわたる。
窓の外を舞う雪が、私には無数の白い鳩に見えた。

数分後、ミヨちゃんの家族が駆けつけ、小さな病室に嗚咽が溢れた。清拭を終え、寝巻きを着せ替えると、葬儀社の男性がミヨちゃんを迎えに来ていた。
遺族控え室から続く裏玄関で、仲間とともにミヨちゃんを見送った。昨夜からの雪はやみ、東の空が少しずつ明るくなっていた。朝の光が、葬儀社のワゴン車のフロントガラスに鈍く射し込み、小さな水滴を作っていた。

患者を看取ったのは今回が初めてではない。ミヨちゃんを特別扱いするつもりはないが、私はトオルという男性にミヨちゃんの死を伝えなければならないような気がしていた。
ミヨちゃんが亡くなってから2週間ほどが過ぎたある日、職員玄関で有紀が立っていた。
「陽子、色々お世話になってありがとう」
「いいえ、そんなこと・・・どう?落ち着いた?」
「うん、何とかね。ねぇ、今時間ある?陽子に見せたいものがあるの」
私と有紀は、病院の西隣にある喫茶店に入った。ふたつのコーヒーカップが並んだ小さなテーブルに、有紀は色あせた紙切れを乗せた。
「これ、見せたかったの」
「これは・・・?」
「ひぃおばあちゃんの家で、みんなで形見分けをしたの。私、桐箪笥を貰ったんだけど、引き出しを整理してたら出てきたのよ。ほら、前に陽子、言ってたでしょ。ひいおばあちゃんが『トオル』って叫ぶって。この人じゃないかと思って・・・」
丁寧に折りたたまれた古い紙切れをそっと開いてみた。それは、昔「赤紙」と呼ばれた臨時召集令状だった。
“裏面記載事項ニツキ熱護スベシ”“到着日時 昭和二十年一月七日”“到着地 歩兵第三聯隊”“麻布聯隊司令部”
見慣れない古い文字とカタカナ交じりの文章に戸惑いながら、右端の宛名をかろうじて読み取った。
・  ・・林田 亨・・・
「ハヤシダ トオル・・・?」
「見つけた時、陽子が私に聞いたこと思い出して、取っておいたの」
「で、この林田亨さんって、どういう人なの?」
「それが、誰も事情を知ってる人がいなくて・・・」
こんな紙切れ1枚で、仲を引き裂かれた恋人なのか、それとも、ただの幼馴染みなのか、もしかしたら結婚を約束した人なのか・・・。
私にも有紀にもわからない。けれど、林田亨さんという人は、ミヨちゃんにとってとても大切な人であっただろうことはわかる。ミヨちゃんが、この世で発した最後の言葉なのだから。
夕焼けの街角で有紀と別れ、家路を急ぐ私の胸に、ミヨちゃんのベッドの下に置かれた歩行訓練用の小さな靴が甦った。

※地元新聞社の公募に初入選した短編小説です。
 当時市内の総合病院に勤務していたので院内の風景などはその病院を参考
 に…。
 いやいや、それにしても懐かしい…20年以上前に書いた、当時はまだ地元
 文壇ではペーペーの新人でした。
 読み返すとところどころやっぱり甘いな。接続詞とか使い方が貧弱だ。


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