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おたから写真館

階段を降りると俺の仕事場がある。二階と三階は住宅で、いわゆる「店舗併用住宅」だ。
 一階のドアを開けると大きなライトやスクリーンが並ぶスタジオ。昔ながらの蛇腹式シャッターを押し上げ『おたから写真館』と書かれた看板を丁寧に雑巾で拭く。店内に光を入れるとまず俺は、カウンター脇の棚に飾ってある七個の写真立てに一礼する。これは俺が依頼されて撮影した遺影だ。笑顔の七人が「今日も頑張ってね」と言ってくれる気がするので毎朝こうして礼をしている。
 苗字が「高良」なので「たから写真館」が正しい読み方である。先代館長の父が「平仮名の方が親しみやすい」と言い、看板を作った。この「たから」にわざわざ「お」をつけたのは半年前のことだ。幼馴染の須藤正太郎のひとことがきっかけであった。
「隆ちゃん、「お」ってつけちゃえよ。お宝なんだから」
 
 地元の高校を卒業した後、札幌の専門学校で写真撮影や現像を学んだ。その後、学校に来た就職案内を見てブライダル専門の写真館に就職した。地元に戻らなかったのは、
「隆一、そのまま札幌で就職して社会勉強をした方がいい」
 と父に言われたからである。子供の頃から慣れ親しんだ地域でいきなり父親のあとを継ぐよりは、よそ様の釜の飯を食ってから、というのが父の考えであった。
 入社直後はなかなか撮影に関することには携われず、カメラマンの指示に従って花嫁のドレスの裾の向きを微妙に変えたり、ブーケの角度を直したりと地味な作業ばかりだったが、半年ほど経つと小物の向きや位置、光の当て方、花の配色、そんな細かいことひとつで出来上がりが大きく変わるさまを見るのが楽しくなった。
 二十七歳の春にこの職場を辞し、帯広に帰って父の写真館を手伝うことになった。折しも、チェキやデジカメなどが主流となり現像の仕事はあまりなかったが、近郊の小学校や幼稚園・保育所、小中学校の行事撮影があったので、極端な経営難にはならなかった。
 また、通りの商店街の人や近隣の人たちからは家族の節目の記念写真をよく頼まれる。
「高良さんは腕がいい」
 父はそう言われるのが嬉しくてたまらないのに、褒められると照れなのか「まあ、一応プロだからね」と、背を向けてぼそっと言うのが常だった。
「隆一くんが帰ってきて、親父さんも楽できるね、心強いし」
「いやあ、まだまだこいつは。何せ札幌の会社では結婚写真しか扱ってなかったからねえ」
 謙遜なのか本音なのかわからなかったが、そんな時もよく回れ右をしていた。
 
 父が六十七歳になった春、心臓の病気が見つかり無理はできなくなった。既に結婚し、子供が二人いた俺はそれを機に正式に写真館を継いだ。三十七歳の春だった。両親と俺の妻は仲が良く、笑顔が絶えなかった。その十年後、上の娘が高校を卒業するのを見届けると、安心したかのように父が逝った。
 父亡きあとも業務内容に大きな変化はなかったのだが、ここ数年、少し変わった撮影依頼が増えた。きっかけは母である。父の三回忌を終えた時、母がスタジオに来て「頼みがあるの」と言った。
「どうしたのさ」
「うん、あのね、母さんの遺影を撮ってもらえないかしら?」
「は? なに、どっか悪いのか?」
「そんなんじゃないの、ほら、お父さんの時はバタバタしちゃって。納得のいく遺影選びが出来なかったじゃない。先に選んでおけば自分も家族も安心するんじゃないかって」
「そういうことか。ちょっと抵抗はあるけどなあ、まあいいか」
 承諾すると母は、俺の妻と撮影時の衣装や化粧のことを延々と話し込んでいた。
「よくそんなに話すこと、あるね」
「隆一、女にとっては大切なことばかりだよ」
「そうよ、色んな人が写真を見てくれるんだもの。慎重に選びたくなるわよねえ」
 打ち合わせなのかお茶会なのか、お菓子をつまみながら談笑する母と妻は楽しそうだ。
「お義母さんが元気だからこうして笑い合って相談できるのよ? 本当に体調が悪くなってからじゃ、こんな話できないじゃない」
「早紀子さんの言う通り。病気になってからじゃ『縁起でもない!』で終わりじゃないの」
「着るものの話になると女は長い。選ぶにも時間がかかる」と、生前父が言っていたのを思い出しながら、俺は二人の笑い声を背にスタジオに戻った。
 翌週、母の遺影撮影をした。妻と選んだ薄紫の着物に身を包み、念入りに化粧を整え椅子に座った母は、少し若返って見えた。
「よおし、撮るぞ。アゴ少し引いて。椅子に寄りかかるなよ、背筋を伸ばしてみて」
「綺麗ねえ。お着物の色、似合ってる」
 支度を手伝った妻が言う。そして一週間後、できあがった写真を見て母は喜んだ。
「いいわね、いつ死んでも後悔しないわね」
「またそんなこと言う!」
「ごめんごめん。父さんの分も長生きしなきゃね。あ、時間だわ。行かなきゃ」
「今日はなに?」
「商店街の婦人部の集まり。総会準備よ」
 数年前から婦人部の副部長をやっている母が自分の遺影を早々と撮影した話は、その日あっという間に広まった。それをきっかけに「遺影撮影」の依頼が舞い込むようになったのである。結婚写真を撮る職場でスタートを切った俺は突然増えたその仕事に戸惑った。
 当然ながら一人じゃ捌ききれず、若者は断り、還暦を過ぎた人限定とした。
「なんで遺影なんか撮りたがるんだろう」
「長生きするって迷信があるみたいよ?」
「えっ? まさか」
「この前テレビでやってたもの。遺影だけじゃなくて、生きてる間お棺に入ると長生きするって。大手の葬儀会社でそういうイベントもやっているわよ」
 依頼者は口を揃えたように「元気なうちに」「納得できるものを」と言う。この商店街で生まれ育った俺にはみんな顔なじみであったから、撮影の時はいつも冗談を言い、笑い合っていた。
「おじさん、まだまだ若いですよ。背筋なんかピンとしていて」
「なんだ、おばちゃん。まだお化粧タイムなのかい? 大丈夫だって、充分綺麗だよ」
 男性も女性も、和装と洋装で結構悩む。中には仕事着で撮影して欲しいと、会社名が刺繍された作業服やお気に入りのスーツ、鳶職人の半纏姿の人もいた。
 だが、一方で死期を悟った人からの申し込みもあった。大抵は年配の方だったが「この年齢で?」と驚く年代の依頼者もいる。そんな時は虚しくなり、普段の仕事よりも疲れた。
 骨髄性白血病を患った角の書店の甥っ子は三十代後半だったし、悪性リンパ腺癌で余命半年と宣告された裏通りの花屋の妻は四十歳になったばかりであった。
 そして、市内の総合病院の腫瘍内科病棟に勤務する麻生美和が依頼に来た時は、心底堪えた。若年性スキルス胃癌で、余命は一年なのだという。
 俺の娘、麻衣と同じ年で、二十八歳。小学校も中学校も一緒の仲良しだった。高校卒業後の進路が別々となり、美和は実家を出て病院のそばで一人暮らしをしていたが、麻衣との付き合いは今も続いている。
「看護師がこんな病気になって、自分の勤務先に入院しなきゃならないなんてね」
「美和ちゃん」
「あ、そうそう。麻衣ちゃんに手伝ってもらうことにしたの。それから衣装はね、ウェディングドレス。それもお願いしたんだ」
「麻衣に?」
「プロじゃない? 麻衣ちゃんは。私、未婚だから着てみたいの」
 長女の麻衣は高校卒業後、服飾デザインの短大に行き卒業後は市内のオーダーメイド専門店でスタイリストとして働いている。
「撮影当日は麻衣ちゃんも来てくれるって。ほら、髪も抜けちゃってるし顔色も悪いからメイクもお願いしたいし。おじさん、よろしくお願いします」
 撮影予約の日、市の中心部に近いマンションで一人暮らしをしている麻衣が朝早くからやってきて、カツラやドレス、化粧道具をスタジオに広げ始めた。俺は何も言わず美和の到着を待ち、長時間立っているのは辛いだろうと、革張りの椅子を出した。
 ウェディングドレス姿の美和は美しい花嫁で、麻衣の施した化粧が生きているのか、打ち合わせの時よりもずっと顔色がよく見える。
「美和ちゃん、嘘だろ? お前、本当にもうすぐいなくなるのか?」
 決して口にしてはいけない思いを胸にぐっと押し込めて、ただひたすらにシャッターを切り続けるしかなかった。
 撮影から一年ほどが経った十月の末、美和は旅立った。通夜の席では、ウェディングドレス姿の遺影を前に、大勢の参列者が泣いていた。
 
 父の代から住み続けているこの地域だから、近隣住民で不幸があれば当たり前のように手伝いに行く。斎場には俺が撮影した遺影が柩の上に設置され、更にその周りは花で埋め尽くされている。
「いやあ、高良さんの写真、いいわ。おじいちゃんも満足ね。お祭りが大好きだったから法被姿を希望したのね」
 焼香を終えると遺族が涙ぐみながら頭を下げる。それは若い人の葬儀でも同じであった。
 寂寥感を消すために、俺は敢えて遺影撮影の依頼があったあと子供たちの写真を撮りに行くことにした。というより、小学校の発表会や保育園の運動会などの行事前日に、遺影依頼の予約を入れるように設定したのだ。
 そして、少子化の影響で最近はめっきり少なくなった赤ちゃんの百日記念の撮影も、予約が入ると同じようにして予定に組み込んだ。
 様々な家族の、最大限の喜びと哀しみを交互に撮影する。消えていく命の準備のあとにそうすることで、生命の躍動感を味わいたかった。
 だが、父の命日にお坊さんが実家に来てお参りをした日、俺は突然言いようのない虚しさに襲われた。もしかしたら自分の知らないところで「遺影専門写真館」などと呼ばれているのではないか。父は腕がいいと評判だったが実際のところ俺には父を超えるどころか同じ位置に立つことができているのだろうか。
 写真撮影の腕前を褒められるのは嬉しいが、その対象が遺影ばかりだと気が滅入る。俺はカウンター横の椅子に座り込み、深いため息をついた。それと同時に扉が開いた。
「なにふさぎこんでるんだよ」
「正ちゃん」
「声かけたぞ。俺の声にも気づかないくらい落ち込んでるのか?」
 商店街で鮮魚店を経営する小学校からの同級生、正太郎だ。
 俺は五十年以上の付き合いがあるこの男に、少し前まで感じていた淋しさを吐露してみた。
「いいじゃねえか、遺影専門だって。お前の腕がいいから頼みにくるんだから」
 釣りが好きで真っ黒に焼けた正太郎の顔がクシャッと崩れた。
「グズグズ言われるのは性に合わないんだ。発展的な愚痴なら聞くけどよ」
「死の影を背負った人の撮影は淋しいんだよなあ。それが若い人だったら、尚更で」
「難しく考えるなよ。お前は被写体を撮影すりゃいいのさ。麻衣だって時々手伝いに来るんだろう? 親孝行な娘じゃないか」
「そりゃ、まあ」
「俺はそういうの素人だから、わからないんだけどよ。あの子は服飾だのデザインだの、勉強したんだろう。ウチの娘も麻衣ちゃんはえらい、すごいって褒めてるぞ」
「由梨ちゃんが?」
「そうだよ。二十五歳だからな、年も近いし。だからそういうの、詳しいだろう? 若い子だってそういうんだ。由梨の勤め先でもお前の遺影撮影は話題になってるらしいぞ」
「勤め先? 確か、駅の近くの信用金庫だったっけ?」
「ああ、おかげさまで元気でやってるよ。おれにはちんぷんかんぷんだがな、なにやらウチの魚屋の経理がどうとか、会計士をちゃんと入れて決算書を作れとか、色々言うよ」
「そうか。由梨ちゃんは金融のプロだもんなあ。頼もしいじゃないか」
「まあな。口うるさいのは俺の女房にそっくりだがな。ところで何故お前は淋しいんだ?」
「いや、その、撮影の時にさ。みんな化粧や装飾品や衣装や、本当に色々なことに執着して徹底して。それなのにその人がもうすぐいなくなるってことがな。いい顔をして笑うから、シャッター切るのが辛くなるんだ」
「ふうん、それはさ。あれだよ。戦国武将の甲冑や鎧だと思えばいいんじゃないか?」
「戦国武将?」
「戦に行く時はさ、負けた時はあの格好で死ぬからあんなに金かけてんだ。いわば『死に装束』の支度、それも執着だろう」
「うん」
「後悔したくないから頼みに来るんだ。考えようによっては故人が『これ!』って選んでおいた写真を長い間見てもらえるんだから。幸せじゃねえか? 写真屋にとっては」
「長い間って」
「お前、学校の勉強はできたけどこういうところは頭悪いなあ。どこの家でも仏間に遺影掛けておくじゃねえか。いわばその家の宝物なんだよ」
「宝物?」
「そうだよ。撮る人がいなきゃ遺影だってできないんだ。世の中にはな、不要な仕事なんか、ひとっつもないんだよ」
「はは、そうだよな」
「やっと笑ったな。ついでにさ、名前の上にさ、『お』ってつけちまえよ。そしたら『おたから写真館』になるじゃないか」
 正太郎は満足げに立ち上がると「さて!」と大きな声を出し、両手で膝を叩いた。
「じゃ、お前が元気になったところでウチのも頼むとするか。カウンターのところにある写真立てがさ、八個になるけどさ」
「お前の? バカ言うなよ、お前は長生きするよ。憎まれっ子世にはばかるって言うじゃないか」
「俺じゃねえよ」
 正太郎は拳を握ったまま俯いた。
「まだ穏やかな表情ができるうちに撮影してくれ。いいか? 俺の家の宝物になるんだ。だからさ、とびっきりいいの、頼むよ」
「表情? どういうことだ? 一体誰の?」
「由梨だっ!」
「なにっ?」
「脳腫瘍なんだよ! あと何か月元気でいられるのか、医者にもわからないって言われたんだよ! だから頼む!」
 正太郎が叫んだ。
「…わかった。まかせておけ」
 正太郎は帽子を脱ぎ深々と頭を下げると、踵を返し、店を出た。微かに魚の匂いが残っている。
 水臭い仕草しやがって、と胸の奥でつぶやきながら俺は、夕焼けに染まった赤い空の下を歩く正太郎の背中を見ていた。


※半年ほど前に公募に出して落選した作品。原稿用紙16枚の短編です。
 
 
 
 
 
 
 


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