【A Fairly Tale-青い薔薇の精ー】~かつて夢に恋した少女たちに~
先日、大千秋楽を迎えた宝塚花組公演ーミュージカル「A Fairly Tale-青い薔薇の精ー」とレビューロマン「シャルム!」ー。残暑が残る9月、私もなんとか手に入ったチケットを握りしめて、宝塚大劇場に赴いてきました。なんとしても明日海りおさんの退団公演を見届けたかったのです。そして、ついに迎えてしまった千秋楽。ライブビューイングで、最後の彼女の姿を目に焼き付けてきました。
私は明日海さんのお芝居が大好きで、1年半ほど前から花組さんの公演をおっかけています。けれど、宝塚大劇場まで足を運んだのは今回で5回目。自分ではライトに応援している方かなと思っていたのですが、観終わった後は放心状態。「A Fairly Tale」では涙がとめどもなく溢れ、「シャルム!」では終盤から終わるな終わるなとひたすらに念じてました。花組さんの舞台はポーの一族からライブビューイングを含めて追いかけてきましたが、嗚咽が出るほど泣いてしまったのは初めて。じわじわと男役の明日海さんを生でみれるのは最後なんだと悲しさが込み上げてきて、チケットが1枚しかないことに後悔しまくりでした。そして、迎えた東京公演の千秋楽。ライブビューイングとはいえ、明日海さんの一瞬一瞬の表情や研ぎ澄まされた舞台をリアルタイムで目に焼き付けることができて本当に幸せでした。特に、「シャルム!」は大劇場で観たときよりも何倍もささりまして…。稲葉先生と花組の皆さんが作り上げたパリの地下都市の世界が大きく広がって、もう感無量でした。宝塚を好きになって、こんな経験させてもらって本当よかったと、公演から数日たった今もしみじみと思っています。
さて、今回はミュージカル「A Fairly Tale」の魅力についてとりあげたいなと思います。というのも、明日海さんと華ちゃんのお芝居もとってもよくて、その素晴らしさについてももちろん語りたいのですが、この作品自体のよさについてもお伝えしたいと思いまして…。おとぎ話を体現したどこまでも美しい舞台美術と、お話しを深く紐解きたくなるような繊細な演出。どんぴしゃに、私の心を揺さぶってきた作品でした。twitterで拝見した感想で、絵本を読み解くような楽しさがあるというものがあったのですが、まさにその通りだと思います。賛否両論はあるだろうけど、私はこの作品がとにかく大好き。この滾る思いをどこかにぶつけたいと、ふつふつしておりました。そこで今回は、なぜこの作品が私の琴線を揺さぶったのか、お芝居を観て感じたことをお伝えしたいと思います。
「A Fairly Tale」は、絵本を子供たちに読み聞かせる3人の女性たちと、Mysterious Laidy(光の女神:デーヴァ)が『Like a Fairly Tale』を歌うところから始まります。彼女たちの透き通った強く穏やかな歌声に導かれ、私たちは一気にこの美しい世界に惹きこまれるのです。『おとぎ話の終りは、いつも…。』この言葉に彼女たちが託すもの。そこには、かつて少女だった女性たちの、苦しみを乗り越えた女性たちの信念がこめられていると私は思っています。それは、「夢を忘れずに生きていれば、必ず幸せはやってくる」という祈りでもあり、「A Faiely Tale」という作品自体の軸にもなっているはずです。
母親が読み聞かせてくれるおとぎ話や、庭や町中で、ふとした瞬間に出会う妖精たち。彼らを通じて子供たちが身につけるものは、自然を敬う心と想像力です。「精霊の住まない庭に花は咲かない」と劇中で言われるように、妖精は自然界の調和を守る存在です。そして、人間たちの見えない世界(時には私たちのすぐ近く)で、歌い、踊る彼らは、遊戯性を体現しています。遊戯とは、心のゆとりを保つために、大人になっても忘れてはいけないもの。その中で想像力も芽生えてきます。妖精と遊ぶ(自然の中で遊ぶ)ことで子供たちは、自然を大切にすることを学び、見えないものを生み出す想像力を鍛え、柔らかい心を育んでいくのです。
けれど、その一方で、「おとぎ話」は、勧善懲悪の世界観を子供たちに与えます。『愛する王子様 王女様と結ばれ 悪はほろび善は勝つ。』ーこの白黒はっきりつけられる、単純明快な世界。その価値観の中で子供たちは育っていきますが、大人になるにつれ、この世界はきれいごとばかりでないことに気づいていきます。自分以外の様々な他者が関わるからこそ、世界はグレーで、決して単純明快なものではないのです。「おとぎ話」や「妖精」の世界に子供が浸りすぎてしまうと、想像の見えない世界、自分を中心とした世界に逃避してしまい、心が硬直してしまいます。けれど、どれだけ逃避しても、子供たちは現実の社会の中でこれからも生きていかなければいけない。その中で、各々の役割を全うする必要があるのです。「大人になる前に、忘却の粉をふりかけること。」ディオニソスが何度もエリュに諭すこの自然界の掟は、人間の精神のバランスを守り、世界の調和を維持する掟でもあります。
それでは、おとぎ話の世界で学んだ自然への敬意や想像力を子供たちは、現実の社会の中でどう生かしていくのか。それは、培った敬意や想像力を、人との関わりの中で生かしていくこと、つまり「誰かのために」生きることが大切になってきます。それを子供たちは、周りの大人の導きや友達との関わりの中で自覚していきます。そして、人は、社会の中で自分の役割、責任を全うしていくのです。「A Fairly Tale」で、提示される人間としての生き方。つまり、あらゆるものへの敬意を忘れずに、誰かのために生きること。この誠実な生き方に私はあこがれるし、大人が子供たちに伝えていくべきことだと思います。それは、何よりも私が、シャーロットと同じように、想像の世界にはまりこんでしまい、現実になじめなかった経験があるから。悩み、もがいていた当時の自分にこの作品を見せて、あなたの周りには大切な人がいっぱいいるよ、大丈夫だよって言ってあげたいのです。
シャーロットにとっての「夢」。それは、少女の頃に出会ったエリュとのかけがえのない思い出でした。また、敬愛する母ーフローレンスがいた屋敷であり、ニックが丹精込めて育てた花が咲き誇り、妖精たちが住まう庭園でもありました。庭園に集まった妖精たちによる幻想的な夏至の祭り。エリュと心を通わせ、遊び、語り合った時間。そして、心を震わせた初めてのキス。このエリュと過ごした時間は、シャーロットの人生の中で、常に彼女の核となるものです。そんな子供時代の「夢」に心覚えがある人は少なからずいるのではないでしょうか。
さて、シャーロットにとって「夢」は彼女の支えであった一方で、彼女を苦しめるものでもありました。普通だったら、忘れて大人になっていただろう「夢」を、シャーロットはエリュと出会ってしまった故に忘れることができなかった。それでも、フローレンスが生きていれば、ニックがそばにいれば、シャーロットは、夢と現実の世界に折り合いをつけ、心を柔らかくして生きていくことができたかもしれません。フローレンスとニックは、この作品における理想的な「大人」です。二人は子供時代妖精と交わった経験を忘れても、そこで得たものを胸の奥に持ち続けて、大人になりました。フローレンスも、ニックも、ひとやものに敬意をはらうこと、慈しむことをなによりも大切にした人でした。孤児のハーヴィーを育て、植物を慈しむことを教えたニック。トムの髭をひっぱった幼いシャーロットに、その痛みを想像するよう促したフローレンス。「支えあい、ともに生きる。」激情に身を流せず、友情を大事にした二人。フローレンスとニックがそばにいれば、シャーロットも豊かな感性を持ったまま、幸せな家庭生活を歩むことができたかもしれません。
けれど、フローレンスの死、エリュと過ごした庭園との訣別は、シャーロットの心を曇らせていきます。エリュを思えば思うほど、想像の世界に浸るほど、シャーロットは現実の社会になじめなくなっていくのです。自分が中心だった妖精の世界と違って、現実の社会は様々な価値観の人が集う場であり、それ故に単純なものさしで測れないこともたくさんあります。フローレンスと死別したあと、イヴリンと再婚したエドモンド。エドモンドにも彼なりの苦しみがあったはすです。けれど、シャーロットは父の苦しみを理解することができなかった。夢の世界にあまりにも近すぎたシャーロットの感性は、どこまでも純粋で繊細で、父の苦しみを穢れと受け取ってしまったのだと思います。さらに、シャーロットは継母のイヴリンとも馬が合わず、周りの人々に対して心を閉ざしてしまいます。「財力のある男性と結婚し、幸せな家庭生活を送ること」をよしとする時代の価値観。その価値観の中ではありますが、イブリンもふさぎ込むシャーロットを心配し、彼女に歩み寄ろうとしていたところがありました。けれど、シャーロットはそれに気づくことができません。妖精の世界で育んだ想像力を、シャーロットは周りの人たちに向けることができないのです。ギルバートと意にそぐわない結婚をしたシャーロットの心は、ますます強情になっていきます。ギルバートも、きっと、最初は彼女を愛し、大切にしようと誓っていたはずです。彼なりに。けれど、シャーロットは彼に対して最初から拒否反応を示してしまった。「誰のおかげで、この暮らしができると思っている?」「ここが気に入らないなら、出ていけ。」シャーロットに手を上げ、しぼりだすように叫んだアルバートの歪んだ表情。本当はシャーロットに愛してほしかったという悲しみと怒りがにじんでいたように思います。けれど、シャーロットは、最後までアルバートに歩みよることができませんでした。エリュと過ごした幼い時の幻影にすがりつき、狂ったような笑い声をもらすのです。
シャーロットの心が壊れてしまった一因は、エリュが自然界の掟を破ってしまったことにあります。自分のことを忘れてほしくない、自分たちの思い出をなかったことにしたくない。エリュはどうしてもシャーロットに忘却の粉を振りかけることができなかった。その結果、シャーロットは社会に適応できず、夢の世界に縋り、彼女の心は壊れかけてしまいます。エリュの行動は、彼のエゴによるものです。けれど、私はエリュを責める気にはなれません。掟を破ってしまうほどの、自然界の調和を崩してしまうほどの、強いピュアな愛。シャーロットが覚えている限り、シャーロットの中に自分は生き続ける。自分のエゴとを自覚しながら、シャーロットの人生を狂わせてしまったことに後悔しながら、それでも粉を振りかけることができず霧の中をさまよい続けるエリュの苦悩。業のない人間なんていないと思っているので、このエリュの苦悩とその切なさを私は否定できません。
それでは、エリュの「罪」とは果たして何だったのでしょうか。それは何よりも、彼の「傲り」にあったと思います。「なぜ掟を守れぬ」と問いかけた光の女神デーヴァに、エリュは、「精霊は人間より優れた存在なのに、どうして身をひそめて生きねばならないのか。」と答えます。その発言に、デーヴァは「思いあがった愚か者よ。」と激昂します。エリュの憤り、シャーロットと一緒に入れないことへの理不尽さが、その発言を導いてしまったとは思うのですが、ここで、デーヴァはエリュが掟を破ったことよりも、精霊としての分をわきまえていないことを問題視して、制裁を下しています。この時点で、エリュはシャーロットと自分しか見えておらず、精霊としてのアイデンティティに驕るばかりで、自分の真の役割を自覚できていないのです。世界の調和を保つ必要のある女神デーヴァにとって、エリュはその調和を乱す、逸脱的な存在です。そのため、デーヴァは彼に罪を与え、更生の余地を残しつつ、異端として追放したのです。
この作品で私が好きだなと思うのは、主人公であるエリュの成長ーつまり、自らの過ちを受け入れ、その役割を自覚する様子を描いているところです。「生きとし生けるもの、守り守られ生きていく。」ーハーヴィーが、ニックとの思い出をウォーディアンケースに託して穏やかに歌い上げるそのそばで、エリュの何かが解き放たれます。劇場の空間が静かに満たされるあたたかいシーンです。そして、場面はフラッシュバックし、ニック、フローレンス、シャーロットと、薔薇の庭を愛した人々が精霊エリュに想いを馳せます。「精霊のいない庭に薔薇は咲かない」その言葉の意味を深く受け止めたエリュは、「Dear Friend」を口ずさむのです。ハーヴィーと関わり人間のことを知っていく中で、自分とシャーロットのことしか見えてなかったエリュに、もっと大きな視界が開けます。妖精として、再び薔薇を咲かしたい。自分の責任を自覚したエリュは、忘却の粉を振りかける掟を受け入れます。それは、自らのエゴよりも、心からシャーロットのことを思えた決断でもあるのです。
私がさらにこの作品が凄いなと思うのが、シャーロットの生き様を通じて、調和にとどまらないあり方、つまり、逸脱が生み出す変革の可能性を提示していることです。エリュとの思い出を忘れられず、心を壊してしまったシャーロット。けれど、エリュとの思い出が彼女の胸にあり続けたからこそ、彼女は「絵本作家」という自分の生き方を見出します。彼女がそこに到達するには、たくさんの苦しみがあったはずです。けれど、人生を狂わせた「夢」が彼女を支え強くし、「時間」が苦しみを和らげました。そこに、私は希望を感じるのです。夢を胸に生きる人は決してやわではないと教えてくれている気がして。一般に、結婚すること、家庭を築き、保つことが女性の幸せとみなされます。子を育て、子孫を増やす営みは、社会の原則であり、人々はこの原則を保とうと生きます。女神デーヴァにとっても、人類と生物の生命を維持するために、この原則は第一なのです。けれど、ただ生命が増えていくだけでは、世界は豊かになりません。「想像力」がなければ、文明は発展せず、自然の調和は保たれません。
エリュと出会ったシャーロットは、幸せな家庭を築くという社会の通念的な価値観になじむことができず、苦しみました。けれど、彼女はエリュとの思い出を糧に、「作家」という自らの役割を見つけます。シャーロットの絵本は、子供たちの想像力を育みます。彼女は、作家という職業によって、自然と文明が調和する未来の社会の礎を築くのです。年老いた彼女は、絵本のファンである子供たちに囲まれ、穏やかに微笑みます。彼女は確かに人生を生ききり、己の役割を全うしました。シャーロットは、新しい時代を切り開いたのです。
女神デーヴァは、自らの役割を見つけたエリュとシャーロットに最高の祝福を与えます。二人の愛と、その愛が産み出したものに対して。「さあ、魔法の力でほんの一瞬、時を戻しましょう。」ーデーヴァが魔法の杖を振ると、シャーロットは少女の姿へ、エリュは白い薔薇の精へと変わります。この作品の最大のカタルシスであり、物語を愛する者に対する粋な祝福。そして、おとぎ話だからこそ成立する永遠の一刻。私の一番好きなシーンです。「忘れていない、何も…。」とつぶやくハーヴィーに、「時間が断ち過ぎて、忘却の粉の効き目がなくなってしまったのかしら。」とデーヴァはとぼけます。デーヴァの縛り(掟)を乗り越えた二人に彼女は敬意を示したのかもしれません。夢の中で、ひと時は永遠になります。時は過ぎ去っても、思い出が遠い過去になっても、その時得たきらめきは真実であり、永遠のものなのです。
「金色の砂漠」のギィとタルハーミネのように、全てを投げ出して、二人だけの砂の海に砕け散る愛。憎しみも怒りも苦しみも全てをぐちゃぐちゃにして到達する愛。肉体を求めずにはいられない、愛の本能を表現した生々しいダンス。砂漠の乾いた空気と人々の湿度の高い情が溢れる世界。私はこの作品が明日海さんの出演作の中で一、二を争うぐら大好きなのですが、それと同じぐらい、「A Fairly Tale」で描かれるプラトニックな愛も大好きです。妖精のエリュと人間のシャーロットの愛は、人以外のものに対する愛にも価値があるのだと全力で肯定してくれていると私は感じています。周りの人と関わることが苦手だった私ですが、当時本や映画の世界にのめり込み得たきらめきが、確かに今の自分を形づくっているのだと、この作品を通じて自分を肯定することができました。
また、金色の砂漠が、通念的な価値観からの逸脱を悲劇の形で描ききったのであれば、「A Fairly Tale」は、逸脱にも社会を変えていく可能性があるのだという希望を見せてくれたと思っています。ギィとタルハーミネは、愛のために生を代償にしなければいけなかったし、調和を求めたジャーとビルマーヤは、ギィとタルハーミネのような愛に到達できませんでした。兄のように生きれたらとつぶやくジャーのように、ギィとタルハーミネの身を焦がすほどの愛、社会から逸脱するような愛に私たちはどこか憧れがあるのかもしれません。けれど、「A Fairly Tale」において、エリュは、シャーロットとの二人だけの世界ではなく、自らの役割を優先させました。全体の調和を優先したという点で、ジャーとエリュは似ています。「A Failry Tale」の世界では、ギィのようなエゴスティックな選択は肯定されません。「金色の砂漠」では、社会的責任を潔く切り捨てたからこそ、二人の愛が鮮明に浮かびあがってきますし、死をもって完成されます。一方で、「A Fairly Tale」では社会的責任を果たすこと、生きることの大切さが強調されています。エリュとの愛、社会から逸脱した愛にシャーロットは苦しみましたが、彼女はその愛を絵本という形で昇華し、一般的とされる女性像を変えていく生き方を示しました。「金色の砂漠」のような愛にどうしようもなく魅かれるのは間違いないのですが、現実に私たちが生きていく上で道しるべとなるのは「A Fairly Tale」で提示される愛、「敬愛」ではないかなとも思うのです。
実は、明日海さんの最後の舞台が「A Failry Tale」と発表されたとき、ちょっと残念に思ったのは確かです。スーツとかびしばし着こなす、ザ・男な役が観たかったなあと実は思ってました。けれど、「A Fairly Tale」を観終わった今は、心底この作品が宝塚最後のお芝居でよかったと思っています。明日海さんの最後を、こんなにもあたたかく希望を感じさせてくれる作品で締めくくってもらえたことがとても幸せです。