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短編小説 「ウィローブルックの約束」


イギリス南西部の小さな田舎町、ウィローブルックに、エリザベス・ハートリーという57歳の母親と、その娘ローズ(28歳)が暮らしていた。エリザベスは30年間、町の唯一の書店を営んでいた。その店は彼女の生きがいであり、魂そのものだった。

ローズは大学卒業後、ロンドンの広告代理店で働いていたが、昨年、母の体調を気遣って故郷に戻ってきた。エリザベスは当初、娘の犠牲を心配したが、ローズは「ロンドンの生活に疲れていたの。ここで新しい人生を始めたいの」と言い張った。

エリザベスの書店「ハートリー・ブックス」は、町の人々の憩いの場だった。古い木の棚には carefully selected された本たちが並び、暖炉のそばには快適な読書コーナーがあった。店内には紅茶の香りが漂い、訪れる人々を温かく迎えた。

ある日、エリザベスは長年の夢だったヴェネツィア旅行の計画を立て始めた。「ママ、その旅行のために、私がお店を見るわ」とローズが申し出た。エリザベスは少し躊躇したが、娘の熱意に押され、2週間の旅に出ることにした。

エリザベスが旅立って3日後、ローズは書店の財政状況が思っていた以上に厳しいことに気づいた。大型書店チェーンの進出で売り上げが激減し、家賃の支払いも滞りがちだった。ローズは何とか状況を改善しようと奔走した。

SNSを活用して店の宣伝を始め、地元の学校と提携して読書イベントを企画した。また、カフェコーナーを設けて、本を読みながらお茶を楽しめるようにした。徐々に、若い世代の客が増え始めた。

しかし、家賃の支払期限が迫っていた。ローズは苦渋の決断を下した。ロンドン時代の貯金を崩し、さらに自分の大切なヴィンテージギターを売って資金を工面した。

エリザベスが帰ってきた日、書店には久しぶりの活気があった。「ローズ、どうしたの?こんなに賑わって」とエリザベスは驚いた。ローズは店の改革について説明したが、財政難のことは黙っていた。

その夜、エリザベスは娘の部屋で偶然、ギターケースを見つけた。中は空っぽだった。「ねえ、あなたのお気に入りのギターは?」と尋ねると、ローズは「ちょっと友達に貸してるの」と答えた。しかし、母の鋭い直感は真実を察していた。

翌朝、エリザベスは書店の古い金庫を開けた。そこには、彼女が長年密かに貯めていた「ローズの将来のための資金」があった。エリザベスはため息をつき、微笑んだ。

その日の夕方、エリザベスはローズを書店の裏庭に呼び出した。夕陽に照らされた庭には、小さなテーブルが置かれ、その上には見覚えのあるギターケースがあった。

「ママ、これは...」ローズは驚いて声を詰まらせた。

エリザベスは優しく微笑んだ。「あなたが私のために犠牲にしたものよ。でも、親子の絆はお金では買えないもの。これからは二人で、この店を守っていきましょう」

ローズは涙を浮かべながら母を抱きしめた。「ママ、ありがとう。でも、どうやって...」

エリザベスはウインクした。「私にも秘密はあるのよ。さあ、あなたの大切なギターで、素敵な曲を聴かせてちょうだい」

夕暮れのウィローブルックに、ギターの優しい音色が響いた。母と娘は、互いの愛情と理解の深さを、言葉以上に感じていた。

ハートリー・ブックスは、これからも町の人々の心の拠り所であり続けるだろう。そして、エリザベスとローズの絆は、どんな困難も乗り越えていくに違いない。

人生最高の宝物は、本の中にも、遠い国にも、お金にもない。それは、身近にいる大切な人との絆の中にあるのだ。ウィローブルックの小さな書店は、その真理を静かに物語っていた。

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