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わたしに還る

最近、不思議なことがあった。


その日の夜は、いつも通り
筋トレをしながらドラマを見ようとした。

ちょうど夏までのドラマが終わる頃で
ドラマも衣替え。
その日は追われて見るものが無く
少し見始めていた、あるドラマを見た。

いつでも見られるサブスクのドラマ。
なのに、その日の話は
その日、あの夜、
私が見なければいけないものだった。


「これは私だ。」

見ながら嬉しいような、苦しいような、
また、気恥ずかしさがあった。

私の心をありとあらゆる人に
公開しているような感覚だった。

そのドラマの中で女性が語る苦悩、
不安がまさに私の奥底にあるもので
そっと部屋の隅に置いたまま、
時々眺めたり、触れたりしていた、
まさにあのカタマリだった。


的確に不安を語られ、
理由も分かり、
私はある種の安堵を覚えた。

そして、その不安を理由に自由を手放し
やりたいことに手を付けず、
手につけない理由にしていたと確信した。


次の日は朝から私が主催するイベントで、
その日はたまたま昔からの友人が二人
その場にいる空間が出来上がっていた。

その二人に話せそうなら
イベント終わりに話そうか、
などと考えていたら

「都ちゃん、◯◯やったらいいよ。」

開始10分で、
私のやりたかったことを正確に、
的確に突かれて前のめりになる。

それはまさに
不安を障壁にしてやらなかったこと、
そのものだった。

「その話、最後にしようと思ってた。」

と、切り出しついでに
洗いざらい私は友に白状した。


話し出すと次から次へと
珈琲色の深みのある
黒い顔した不安をベースに
言葉がどんどん流れてくる。

中和しようとしてみても
この涙でカフェオレは作れないと
私は割り切って話し続けた。

だから私には出来ないんだ、
だから私は駄目なんだ、
そんな言葉を投げるたびに

「そんなことないと思うよ。」
と、笑顔が返事に返ってくる。

そのうち侵食されて
肩の力は抜けきり、
あぁ居心地がいいなと心が胡座をかく。


相手に否定されるたび
私は解放されていく。

いかに私の思想が偏り、
思い込みだと言われるのか
身体が理解していくのだ。


そのうち
「私から見たら都ちゃんは自由に見えるし
今までたくさん話しをしていた
なんて、思っていたのに
私に似て不安もあるんだね。」
なんて、

私ってそんなに自由だったのね
なんて、変な笑い方を会得し

「完璧な人より
都ちゃんみたいな人の話のほうが
聞いていて親近感があると思うよ。
自分の話を誰かにしてみたら?」

と、そんなことを言われ
その友人と今度、
私の生きてきた話や
人生の分岐点で起きたこと、
そこからどう変わったか、
なんて話を人前ですることになった。


あの日、ドラマを観て気づいていなければ
あの日、イベントで友人に会えなければ
あの日、話を振られていなければ
あの日、あのメンバーでなければ

全てが重なり、
私の向かいたい方向へハンドルを切り
車線変更が出来た。


いつでもチャンスを掴む準備だけはあり、
掴めた私にも拍手を送りたい。
この考えに至るまでに
何年も何年もかかったのだから。

焦らず、自分のペースで、
私は、わたしに還っていける。


今は素直にそう思える。

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