小説 「僕と彼らの裏話」 43
43.失うわけにはいかない
先生宅の和室で、大切な名刺を彼に返却し、残念ながら千秋には「要らない」と言われてしまったことを、努めて冷静に報告した。
彼は、黙ってそれを元の財布に戻しただけで、落胆も何もしなかった。
彼と散歩に出かけるような時間まで、まだまだ余裕がある。僕は、2階の台所で冷蔵庫の中身を確認してから、パソコンで事務仕事を始めた。
先生は、自宅に戻ってきてからは毎日、1階の応接室に篭っている。最新作の執筆に忙しいのだ。
岩手で彼と共に書いてきたプロットを基に、出版社へ送る正式な書式の原稿を仕上げるべく、先生は日夜 猛烈な勢いでキーボードを叩いている。
僕は、滅多なことでは、先生が篭っている部屋には近寄らない。
事務仕事を終え、昼食を作るため台所を片付けていると「ひゃあ、難しいなぁ!」と大きな声がして、先生が1階から上がってきた。
パソコン用の眼鏡は下に置いてきたようで、先生は裸眼だった。僕はお茶でも出そうかと思って そちらに行ったのだけれど、先生は ご自分の右肩を掴んで何度も回しながら「煙草を吸ってくる」と言い残し、3階に行ってしまわれた。
5分くらいで戻ってきた先生は、小説と思われる文庫本を何冊も持っていて、それを食卓に広げながら読み漁り、昼食が出来るのを待っているようだった。
先生初の小説となる最新作の、文体や構成に関することで、迷いがあるのかもしれない。
僕が出来上がった うどんを丼に盛り、1人分ずつ食卓に運んでいると、参考文献を見るのをやめた先生が言った。
「そういえば……玄ちゃんが、辞めたんだって?」
「あ、はい。常務が退職された後、すぐに……」
その後の『集団退職』のことと、現場の混迷ぶりは、あえて口には出さなかった。
先生は、いつにも増して真剣な表情で「難しい局面だな……」と言いながら、頭を抱えた。
僕は、配膳を続ける。
「ところで……今度の木曜日、うちに直ちゃんが来る」
「社長が、ですか……?」
「そうだよ。悠介に会いに来るんだ」
これほど忙しい時に、貴重な休日を潰してまで、一従業員の見舞いに来るというのか。彼の容態を自ら確認し、今後の計画を立てるためか……それとも、彼の進退に関する「意志の確認」か……。
「君は、その日……工場のほうに出勤だったかな?」
「そうです」
僕は、現場では2階に戻れることが決まり、どうにかダブルワークを続けている。
「奥様のために、頑張っているのか」
「いえ……。僕はただ、自分自身のために……」
「そうなのかい?……まぁ、いずれにせよ、無理は禁物だよ」
「はい……」
結婚を機に、僕は先生宅では夕食を摂らずに退勤することが増えた。仕事として作ったおかずの一部を、持ち帰って千秋と食べる日を設けているのだ。(もちろん、先生の許可は得ている。)
彼女は、僕が居なければ自宅の冷蔵庫からビールを出せず、堪りかねてコンビニに走ることさえある。彼女が一人で外出できる範囲が広がるのは喜ばしいことであるとはいえ、やはり僕としては妻を一人で酒浸りにさせたくはない。
パソコンを使って在宅ワークをしている彼女の、一日の飲酒量とスクリーンタイム(液晶画面を注視する時間)の長さは、尋常ではない。同じことを僕がすれば、1ヵ月と保たずに倒れるだろう。
この日は、僕が帰宅すると、彼女はリビングの一角にある乗馬マシーンに揺られながら読書をしていた。基本的に「ゲーム用」としているほうのテレビもついていて、ローカルニュース番組が流れている。
「おかえりー」
「ただいま」
「今日、おかず何?」
「唐揚げ。今日は、ささみを揚げたんだ」
「良いねぇ!」
これに、マヨネーズをかけると美味いのだ。ビールにも よく合う。
「また、そのうちさぁ。稔のザンギが食べたいな」
「あぁ。ザンギにしても良かったねぇー」
(※ザンギ……鶏肉や魚介に、濃い下味をつけて揚げたもの。北海道発祥の料理。)
唐揚げと共に食べる野菜を用意しようと僕が台所に立ち入るなり、彼女から「待って!戻ってきて!」と呼び声がかかり、僕は速やかに引き返す。彼女が一人で乗馬マシーンに乗り降りするには、踏み台代わりのキューブ型ソファーが欠かせないのだけれど、僕がうっかりその上に自分のリュックを置いてしまい、それが邪魔で降りられなくなっていたのである。彼女は、自分が座るために他人の荷物を床に放り投げたり、あるいは踏みつけにしたりするような人ではない。
「あぁ。ごめんよ……」
僕はゲーム用ソファーの上にリュックを移し、せっかく戻ってきたということで、彼女が手にしていた書籍を預かった。彼女は、すぐにマシーンから降りてキューブ型ソファーに座り、そこから、すぐ近くに停めっぱなしだった車椅子を引き寄せて乗り移る。
彼女は立って歩けるわけではないけれど、腕を含む「3本足」で這ったり、どこかに登り降りしたりする姿は、よく見る。その股関節の柔らかさは「特技」と呼んで差し支えないと思うし、彼女は僕と違って「倒立」が出来る。腕相撲をすれば、左右とも僕が負ける。彼女は ほとんど出歩かない人だけれど、室内では積極的に運動や筋力トレーニングをして、身体の現有機能は高い水準を保持している。お気に入りの乗馬マシーンは、そのために買ったものでもある。
夕食時。相変わらず2人並んで映画鑑賞をしながら、彼女だけはビールを呷る。今回の唐揚げは、衣にスパイスを混ぜて味を付けてみたのが、うまくいった。もも肉でこれをすれば、あの「部長の唐揚げ」を、ほぼ再現できるのではないだろうか?
千秋が、そろそろ酔ってきた気がする。些細なことで笑うようになるから、すぐに判る。
「そういえば……稔さぁ。高校の時『趣味は除雪だ!』って言ってたの、憶えてる?」
「いやぁ……?」
ボランティア同好会としての活動をいかに楽しんでいるかという、優等生ぶったアピールだろうか?……推薦入試に向けた自己PRの練習ばかりさせられていた頃なら、口にしたかもしれない。とはいえ、よく憶えていない。
「『漫画はガチで描いてるから、趣味じゃないんだ。除雪で体を動かすのが、気分転換のための趣味なんだ』……って、言ってたよ。当時」
「……え、そんなキモイこと言った?」
「別に、キモくはないっしょや!」
彼女は、豪快に肩で笑う。
僕は、漫画の話をされるのが苦手だ。悍ましい記憶が、必ず 付いて回るからだ。
「今は、小説を書いてるんでしょ?」
「……そうだよ」
「読んでみたいなぁ……」
千秋は、いかにも何かを期待するように、食卓の上で指を組んで「ふふふ」と笑ってみせる。
あのファンタジー小説は、書き上げた当時は現役だった編集者や絵本作家の【太鼓判】をもらった作品だ。須貝部長も「感動する」と言ってくれた。元国語科教諭に見せたって、恥ずかしくない出来であるはずだ。
「あの絵、稔の小説の『ファンアート』なんでしょ?」
「あ、うん……」
僕らの家の、リビングや廊下には、先生直筆の「ファンアート」が飾ってある。荒野に建つ天文台とか、主人に尾を振る黒い犬とか、架空の生き物「輓獣」が曳く幌付きの車とか……。僕が書いた小説の世界観が、見事に視覚化されている。
「プロがそこまで気に入るって、やっぱり凄いことだよ!?どっかの賞に応募すれば、書籍化だって夢じゃないかも……!!」
酒に酔っているからこその、ポジティブな【空想】だろう。
「哲朗さんに、相談してみなよ!」
「……僕は、プロになろうとは思わない」
「なしてさ?」
「趣味だからこそ、純然たる【生き甲斐】になるんだ!」
図らずも大きな声が出て、自分でも驚いた。千秋も、きっとそうだろう。
それでも、僕はそのまま黙ることが出来なかった。
「僕は……僕は、自分の創ったキャラクターが……どっかの会社の『利益』とか『PV数』なんかのために捻じ曲げられていくのは、厭なんだ!」
他者の手によって、物語があらぬ方向へ転がっていくのは……耐えられない。僕がどんな人間で、どんな物語を書いて、何を伝えようとしたのか……何も知らない連中に「仕立て上げられる」のなんて、二度と御免だ。
毎晩一人で飲んでいる千秋は、僕だけが素面で真面目ぶっている様を、これまでに何度も見ている。特に動揺はしない。
「なんか……すっかり『真面目くん』になっちゃったね。あの『おだちんぼ』がさぁ……」
(※おだちんぼ……北海道弁で「お調子者」を意味する単語。)
幼少期〜高校前半の、父が存命だった頃の僕は、確かに「おだちんぼ」だっただろう。走るのは速いほうだったし、スキーやスケートだって、少なくとも「下手」ではなかった。自分に自信があった。漫画を描くための勉強しかしなかったにも関わらず、学校の成績は悪くなかったし、小学生の頃なんて「自分は絵が上手い!」と本気で思っていた時期がある。自分で描いた女性の絵に恋すらしそうなほど、自惚れていて、馬鹿だった。中学生になって「それほど上手くない」と気付いた後も「ギャグ漫画なら、勝機はある!」と、根拠もなく信じていた。
僕は、馬鹿だ。
彼女は、きっと、僕は「父の死をきっかけに、すっかり変わってしまった」と思っているだろう。しかし、実際の理由は……とてもじゃないけれど、言えない。
「私は、今の貴方も好きだよ」
「え……」
「真面目で、優しくて……綺麗好きな旦那さん。とても素敵だと思う」
(あ、ありがとう……)
「それに……度胸があるわ」
「あるもんか!」
恐怖心のあまり電車に乗ることが出来なくなって、車を買ったほどなのに……!!
「私の『本体』と傷痕を見て、ビビらなかった。私のことを『変わらない』って言って……今の私の【あるがまま】を、貴方は真正面から受け容れてくれた」
札幌の、彼女の家で、何があったか……忘れるわけがない。
「私は、それが一番 嬉しかった」
「そう……?」
「そうだよ。
私の、今の この姿を見て……あからさまに哀れむ人とか、ビビっちゃって近寄らない人のほうが、やっぱり多いよ」
それを聴いて、それまで千秋との記憶ばかり思い返していた僕は、初めて先生の癲癇発作に遭遇した後、意識が戻った先生に「君のような人は稀だ」と言われたことを、ふと思い出した。
いずれにせよ、僕は別に、何か「特別なこと」をしたつもりはない。
「この人となら、一緒に暮らしていけそう……って、思ったよ」
突然の賞賛に、僕は何と応えればいいか分からなくなった。
僕が頭を掻きながら黙り込んでいると、彼女が「明日は、どっちに出勤?」と尋ねてきた。
「工場だよ」
「そっか。……気をつけてね、怪我しないように」
「う、うん……」
先生が戻ってきたにも関わらず、僕がまだ町工場に通っていることについて、千秋は反対も非難もしない。
ただ、それでも「無理だけはしないで」「怪我をしないように」とは、毎回 言われ続けている。
本当に、良き妻を持った。
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【44.彼の決断】
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