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小説 「吉岡奇譚」 28

28.一大決心

 仕事から帰ってきた夫が、2度目の夕食を摂っている。
「玄さんが『先生が、ずっとLINEを返してくれない!』って、怒ってたぜ?」
「え?……あぁ、忘れてた」
私がそう答えると、夫は笑い飛ばした。
「ところでさ。倉本くんって、誰だ?」
 私は、知りうる限りの彼の来歴と、動物園での出来事、後日 玄ちゃんが彼の自宅に押しかけて父親と口論になったことを話した。
「そんなことになってたのか……」
「藤森ちゃんの次は、その倉本くんが気になって仕方ないみたいだね……」
「まぁ……悪い人じゃねえんだけどな。悪い事でもねえし……」
「確かに」
私は、腕を組む。
「連絡してやってくれよ。休憩中、ずっと その話ばっかりだから……」
「しょうがないなぁ……」

 玄ちゃんにLINEをすると、案の定「一緒に倉本くんを助けに行こう!」という誘いを受けた。
【彼は、もう退院しているのかい?】
【退院したから、酷い目に遭ってるんだ!】
【父親が、彼を虐待でもしてるの?】
【僕は『虐待』だと思うよ。外にまで聞こえる大声で怒鳴りながら……殴ったりとか、してると思う。すごい音がするから】
【本人は、また動物園に行ってる?】
【もう、家から出る元気が無いんじゃないかな……】
【彼自身から、君に何か連絡はあった?】
【無いよ。名刺には作業所の電話番号しか書いてないから】
「うーむ……どうしたものかな」
相談支援専門員が付いている成人の私生活に、面識すら「無い」に等しい私が、どこまで介入するのか……など、本来なら考えるまでもなく「すべきではない」というのが正答である。
 しかし、屋外に居ても聞こえるほどの怒鳴り声や、暴力が疑われる物音というのは……事実であれば、偶然 聞きつけた通行人として110番通報しても、ばちは当たらないだろう。
 私は、玄ちゃんからの誘いに応じることにした。


 翌日の夕方。私は車を使わずに出かけた。
 電車で、玄ちゃんが指定した駅に向かい、そこから倉本くんの自宅まで歩いた。
 人生で初めて降りる駅だった。まったく知らない町だ。団地を含む住宅街の中に、小さな水田や畑が点在している。至るところに「コイン精米機」がある。

 倉本くんの自宅は、水田と用水路に囲まれた2階建てアパートの、1階の端の部屋だった。
 ベランダの洗濯物は簡単に盗めそうだし、カーテンがあるとはいえ、室内の様子は 外から丸わかりだ。テレビの音声や、人の声が漏れている。私なら、絶対に選ばない部屋だ。
 私達は、室内の様子を伺うべく、ベランダのすぐ外にある駐車場で、適当にスマートフォンを操作しながら、道に迷った人間のふりをする。(近くには似たような外観のアパートがたくさんあるので、本当に迷う人は少なくないように思われた。)
 室内から、彼の父親らしい成人男性の怒号が聞こえてくる。
「あんな、すぐに辞めやがって!!」
難聴の息子にも聴こえるようにと、意識して大きな声を出しているのだろう。
「何のために、大学まで行かせたと思ってるんだ!!!」
「……私の親と、まるっきり同じことを言っているよ」
私は、小声で玄ちゃんに言った。
「そうなの?」
「あぁ……ろくでもない親だ」
我が子の健康状態を度外視して「学歴」と「収入」に固執するなど、本当に愚かしい。
「分かってんのか、てめぇ!!」
息子が応えている気配は無い。
「おい!!」
バン!!と、父親が机を叩いたような音がする。
 一転して、室内が静かになった。

 しばしの沈黙の後、玄関のドアが開き、倉本くん本人がふらふらと出てきた。一時的にでも、父親から逃げるつもりなのだろう。
「玄ちゃん、隠れて!」
「え?」
「君が父親と出くわすのは、まずい!」
私達は、玄関先からは見えない建物の裏手に隠れた。
 倉本くんは、動物園で見かけた時と同様に、鞄を持っていない。部屋着の上から、真冬に着るような厚い上着を羽織り、ボロボロのスニーカーを履いて、踵を引きずるように歩いていく。猫背と巻き肩が酷い。腰の状態も相当 悪いように見受けられる。
 父親が追いかけてくる気配は無い。

 私達は、彼が歩いていった先で、偶然を装って声をかけてみることにした。

 彼は、国道沿いのコンビニに入って雑誌を見ていた。テープが貼られて立読みは出来ないので、ただ表紙を眺めているのだ。
 そこに入店し、私は彼と同じように雑誌を見ているふりをした。(玄ちゃんは、そそくさとトイレに行ってしまった。)
「あれ?……倉本くんだよね?」
今回は、すぐに目が合った。
 相変わらず髪は伸び放題だが、ひげは剃ってある。
「動物園で会ったの、憶えてる?」
私は、弟と話す時と同じように、必要最低限の手話単語を添えて、大きめの声で話した。
 彼は眉をひそめ、首をかしげた。
「体調は、良くなった?」
私の問いには答えず、頭を掻いている。
 それでも、何秒か考え込んでから、唐突に「あ」とだけ言うと、ポケットから財布を出し、私が忍ばせた名刺を取り出した。
「そう!それ……私が入れた!私が、救急車を頼んだ」
彼は、私に数回 頭を下げてから、名刺を財布に戻した。
 自分の声が ほとんど聴こえないらしい彼は、何やら不明瞭な一文を口にした。私はそれを、礼だと解釈した。
「元気になって、良かった」
 私が言った社交辞令に対し、彼は何も言わなかったが、みるみるうちに、眼が赤くなった。
 玄ちゃんがトイレから出てくる頃には、彼は泣きだしていた。背中を丸めて咽び泣く彼を見て、玄ちゃんは初め「先生が泣かしたの!?」などと言ったが、私は「違う違う!」と応じた。

 玄ちゃんが、高価な箱ティッシュと、3人分のパンと飲み物を、快く買ってくれた。
 それを「一緒に食べようよ」と言って、スマートフォンで近くの公園を探し、3人で そこに向かった。
 倉本くんは、ティッシュの箱を手に、ずっと泣いている。
 すっかり日が暮れて、人気ひとけの無い公園で、時計を照らす照明だけが光っている。
 簡素な屋根の下にベンチがあり、そこに並んで座ってレジ袋を物色する。
 倉本くんは、意外にも しっかりと食欲があった。泣きながらでも、玄ちゃんに買ってもらった惣菜パンを、貪るように3個も食べてから、ペットボトル入りのコーヒーを飲み干した。弟と同じように、飲み食いする時の音が少し大きい。
 腹が膨れて人心地が ついたのか、やがて涙は止まった。
「また、毎日サイを見てるの?」
玄ちゃんが耳元でそう言うと、彼は頷いた。
「よっぽど好きなんだね……どこが好き?」
「え……」
 倉本くんは、しばらく黙って、頬をぽりぽり掻きながら考えて、やがて舌足らずな口話で「食欲」と言った。
「食欲!?……サイの、食欲に惹かれているの!?」
玄ちゃんは、肩で笑っている。
「見る、と……自分も、食欲……が、湧いてき、ます」
倉本くんは、話すのはゆっくりだが、だんだんと発音が明瞭になってきた。
 玄ちゃんは、さも可笑しそうに、ふんぞり返って笑っている。しかし、私は倉本くんに、本心から「わかるよ」と言った。動物が何かを食べている姿を見ると、私も食欲が湧くのだ。
「野菜が食べたくなるよね」
「はい……」

「ところで……君は、ご両親と暮らしているの?」
「……はい」
彼は、まったく手話を使わない。私も、使うのをやめていた。大きめの声で、はっきり話してやれば、ほとんど通じるのだ。
「兄弟は?」
「いません」
「玄ちゃんから聴いたのだけれども……お父さんと、仲が悪いのかい?」
「……良くない、ですね」
「殴られたり、する?」
「たまに……」
「そういう時は、やり返す?」
「いいえ。……面倒で……無視、します」
「『家に帰りたくない』と思ったら、いつでも連絡しておいで。家に泊めてあげるよ」
「え……」
「家に居て、ちゃんと ごはん食べられる?」
「…………いいえ」
「作るのは誰?」
「母、が……つ、つ、作って……で、でも、僕は、3人で食べるのが、嫌で……嫌で……」
頭や耳をしきりに掻いて、落ち着かない。
「食べた気が、しない。……何を食べても、苦くて……よく、は、は、吐いて……」
「そうか……困ったね」
玄ちゃんが、震え始めた彼の背中を さすってやる。
「僕、僕……本当は、家を、出たい。けど……働くのが、怖くて……」
「作業所も、怖くて辞めたの?」
「僕、たぶん……どこ行っても、虐められる。……殺、される……」
「殺しはしないだろう……」
反射的に正論を口にしたが、その気持ちは痛いほど よく解る。私は事実として勤務先で【死】を覚悟したことがあるし、人材を殺しかねない企業や団体など、もはや ありふれている。この国では、日常的に、誰かが過労や暴力、差別を苦に生命を絶っている。もはや「先進国」ではない。
 彼は、頭を抱えて、ずっと震えている。玄ちゃんは、ずっと優しく さすってやっている。

 彼が嘔吐するかもしれないと心の準備をしたが、そんなことは無かった。
 やがて震えが治まり、彼は、力無く「そろそろ、帰ります……」と言った。
「倉本くん。明日にでも、一緒にサイを見に行こうよ。現地集合で……どうだい?」
数秒の間を置いてから、彼は応えた。
「……行きます。僕、行きます。明日」
「わかった。待ってる」

 彼を見送った後、玄ちゃんにも一緒にサイを見るかと訊いたが、彼は、明日は昼から仕事だと言って断った。


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 翌日。朝一から入園し、まずは最深部でトラに挨拶をしてから、サイが居る場所に向かった。
 彼は、大きなリュックを背負って、そこに居た。柵の側に立っている。
「おはよう!」
「おはようございます」
「……餌、食べてるね」
「はい」
 しばらく、2人でサイが朝ごはんを食べている姿を観察した。
「先生。僕……家出を、しました」
「へ?」
「服と、通帳と、ケータイと……薬も。全部、持ってきました。もう、帰りません。……泊めてください」
「い、意外に行動力があるねぇ!?」
確かに、昨日「泊めてやる」とは言った。
「親には……就活してくる、と、い、い……言いました」
「なるほど。……ちょっと待ってね。夫に確認するから……」
私は夫に「倉本くんを保護した」「今夜は我が家に泊まらせる」と、一方的なLINEを送った。
 彼から返事が来るのは、早くとも12時以降だろう。

 藤森ちゃんにも、急遽 来客が泊まるという旨を連絡し、寝る場所について、帰ってから相談したいと伝えた。
 
 彼は、些か興奮気味である。意を決して荷物をまとめて家を出て、気持ちが高ぶっているのだろう。サイと同じように、大きく鼻息をついている。
 私は「他の動物も見に行こう」と言って、2人で園内を廻った。
 彼は、サイ以外の動物にはあまり興味を示さず、クジャクやキジ等の鳥類が居る場所には、近寄ろうとしなかった。猛禽類にも「興味が無い」と言った。サイの他に、喜んで見ていたのは、陸ガメくらいのものである。
 正午頃まで園内を廻り、彼が「もう一度サイが見たい」と言い、朝と同じ場所に戻ったが、客が増えていたことで怖気付いてしまい、帰ることになった。

 昼食を摂るために入った牛タン屋で、彼は半分以上 料理を残し、私がもらい受けた。
 腹が苦しくなるほど食べたのは、久方ぶりだ。
 彼は、何度も「ごめんなさい」と詫びてから、結構な量の薬を飲んでいた。見慣れた精神科の薬や、アレルギーの治療薬だという錠剤やカプセルを、胃薬と共に冷水で飲む姿を見て、私は憂慮した。
(少しでも、減らせるといいな……)
このままでは、腎臓が弱る一方だ。
 過剰投与が疑われる量だ。


 帰宅して、藤森ちゃんとの顔合わせを終えると、すぐに寝る部屋について話し合った。
 私と彼女が寝室で寝て、夫と彼が和室で寝るのが良いだろうということになった。また、私は倉本くんに「明日以降は玄ちゃんの家に泊めてもらうのが良いかも」と提言した。
 藤森ちゃんが、彼にあのゲストハウスの存在を教えてやり、彼は興味を示した。
「お金があるなら、そこが一番良いかもね。玄ちゃんは、仕事で居ない時が多いし……」
 彼の貯蓄額と、体調次第だ。

 私が作画を進め、藤森ちゃんが仕事をする間、彼が退屈しないよう、私は和室の床の間に自分の著書を積み上げた。(もちろん、宣伝を兼ねている。)
「好きなだけ読んでくれ」
「は、はい……」
彼は不思議そうに絵本の山を見ながら、ぽりぽりと頸を掻いていた。
 数時間後、夕食が出来たからと呼びに行くと、彼は背中を丸めて私の絵本を読みながら、泣いていた。ティッシュの無い部屋で、涙や鼻水を袖で拭いながら、少し荒い息をして、私に「素晴らしい本ですね」と言ってくれた。
「とんでもない……」
 私は、彼に夕食のことを改めて伝え、顔を洗っておいでと促した。

 3人で夕食を摂る間も、彼は ずっと泣いていた。苦しそうに肩で息をしながら、それでも、出された分を完食すると、すぐ和室に引っ込んでしまった。
 彼が重度の精神障害であることは、藤森ちゃんには伝えてある。彼女は、それについて何も言わない。

 夫が帰ってきて、風呂に入る前に和室を覗き、倉本くんと顔合わせをした。
「まぁ……ゆっくりしていきなよ。俺は、特に何もしてやれないけど」
 倉本くんは「恐れ入ります」と言いながら、深々と頭を下げた。

 彼は初対面の人間と同じ部屋で寝るという状況に緊張している様子だったが、致し方ない。和室を彼一人に貸し与えたら、他の誰か一人を、棚や机が並ぶ部屋で寝かせることになってしまう。それは駄目だ。
 万が一、夜中に地震が起きたら……?あるいは、私が癲癇てんかん発作による自動症で立ち歩いたら……?それらの事を警戒して、我が家は可能な限り物を少なくすると共に、人が寝る部屋には、地震で倒れかねない棚や箪笥は一切 置かないことにしている。(衣類は全てクローゼットか押入れの中に置いた引き出しに収納する。)書籍と本棚は全て資料室に集め、物が多いアトリエやリビングで就寝することは【禁忌】としている。

 私と同じ部屋で就寝するのが初めての藤森ちゃんも、少し緊張している様子だった。
「明日は悠介が休みだから、お弁当は要らないよ」
彼女は、いつもどおり「わかりました」と手話で応じ、普段なら夫が寝ている布団に入った。(枕だけは、1階から持ってきた来客用のものである。)
 私も布団に入って「なんだか修学旅行みたいだね」と言うと、彼女は笑顔で応えてくれた。
「私は寝言が多いらしいから……もし起こしてしまったら、ごめんよ」
 彼女が頷いたのを確認したら、リモコンで照明を消して「おやすみ」と言った。
 静かな夜で、快適に眠れた。


次のエピソード
【29.春の兆し】
https://note.com/mokkei4486/n/n9757c6bb935c

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