小説 「長い旅路」 35
35.助言
どれだけ独りで考えても、答えは出なかった。「このまま、彼と一緒に暮らしていきたい」というのは、間違いなく本心だ。彼との暮らしをやめてしまえば、俺は再び「どん底」に落ちるだろう。彼の作る食事が俺を生かし、彼の笑顔と真摯な情熱が、俺に勇気と安心を与えてくれる。
そして、いつまでも母ばかりを頼っていられないのだから、入退院にまで付き添える「家族」の必要性も、少なからず感じている。しかし、彼との養子縁組によって苗字が変われば、銀行口座その他の名義が全て変わり、実の両親には必ず知られる。それについて詰問された時、どう答えれば良いのかが解らない。だからこそ事前に伝えておくべきだとは思うのだが、何をきっかけにどう話せば良いのかも解らない。
父との衝突、あるいは母の失望、落胆……想像するだけで、腹が痛くなってくる。喜ばれるとは、到底思えない。
俺は、あれから一週間と経たないうちに再び吉岡先生宅を訪ねた。まずは、本題を話す前に浴室で髪を刈ってもらった。(今回は、それを口実に訪ねたのである。)
悠さんの半ズボンをお借りしてそれに穿き替え、上半身は裸になって、浴室内の鏡に背を向けてプラスチック製の風呂椅子に座る。仕上がりは先生にお任せする。基本的に会話はしない。……ここで間借りをしていた頃から、このやり方は変わらない。俺は、散髪中といえど鏡のほうを向いてはいられない。そこに映る自分を見ているだけで、容姿を愚弄する「誰か」の声が聴こえ、叫ばずにはいられなくなるのだ。
先生と出逢うまでは ぼさぼさの長髪になりがちだったが、こうして自分に合った方法で髪を切ってくれる人と巡り逢えたことで、快適な短髪を維持できるようになった。先生は美容師でも何でもない「作家」でありながら、バリカンを使った散髪が非常に上手い方である。
頭がすっきりした後は、浴室内に落ちた髪を片付け、そのままシャワーを浴びる。
それが終わって自分の服を着たら、2階に上がってリビングで先生と共にお茶を頂く。その一連の流れも、やはり変わらない。
先生は、俺の頭を見て満足げに微笑んでから、俺の体調や心境について細やかに訊いてくれた。俺がそれに馬鹿正直に答えるたび、先生はいかにも安堵したように「そうかい」とか「良かった」と応えてくれる。
悠さんが2階に居れば、必ずテレビはついている。しかし、今は消されていて静かだ。彼は今日が受診日らしく、坂元さんと車で出かけているという。
俺は近況報告の延長で、いよいよ本題を口にした。俺は、この家で先生に何かを話す時、いつも決まって正座をする。
「先日、同居している彼に……養子縁組をしないかと言われて……」
「それはまた、急展開だねぇ」
先生は、別段 驚きはしなかった。
「その時は『しばらく考えさせてくれ』と言ったのですが……結局、どう答えればいいのか、分からなくて……」
「まぁ……そうなるよね。重大な案件だ。プロポーズみたいなものだからねぇ」
全くもってその通りである。
しばしの沈黙の後、先生が首をひねった。
「しかし……全くその気が無いなら、迷わず断るだろう?」
「……はい」
「君としては、彼のことをどう思っているの?」
「……すごく、大切な人です。彼に代わる存在は居ません」
先生は、動く物を見つけた虎のように目を丸くした。その後、しばらく黙って、腕を組んで何かを考え込むような仕草をした。
「私が思っていた以上に、君のパートナーは凄い人のようだね」
俺は、自分が吐き出した言葉について何か言われるとばかり思っていたので、少し驚いた。
「だって……つい最近まで、あれほどの喪失感に打ちひしがれていた君が、今はもう『未来』のことで悩んでいるじゃないか。それは、ものすごい事だよ。実に偉大な進歩だ」
言われてみれば……そうだ。
「正直、私は、君がこれほど早く元気になるとは思っていなかった」
俺は、果たして「元気」なのだろうか?
「ひょっとすると……聴力も回復してきているのではないかな?」
「どう、でしょうか……」
「私には、そう見える」
俺は、話を戻した。
「僕は……本当は、彼の意志には応えたいのですが、自分の両親に、どう説明するかで……迷っています」
「なるほど。難しい問題だ」
「苗字が変わるので……隠し通すことは、できません」
「そうか。養子だと、親の姓で固定だものね。『好きなほうを選ぶ』ということができない……」
先生が、養子縁組制度についてよく理解している人で良かった。話が早い。
「まずはお母さんにだけ、話してみるのはどうだろう?」
俺は、何も言い返さない。先生のお考えを聴きたい。
「ひとまず建前として『実父への反感』を主張してもいいだろうし……隠さずに真相を打ち明けても、良いと思う」
父への反感というのは、偽りのない本心だ。だが、それだけを口にして、母は納得するだろうか。
やはり、拓巳との同居によって「もう知られている」と、腹を括るべきか。
「先生は……親御さんに、カミングアウトはされましたか?」
「した。けれども、私が母親にカミングアウトをした時は……まずは引っ叩かれた。そして『そんな金があるなら私に寄越せ!』と言われ、最終的には『出ていけ!』と言われた」
先生は、他者の頬を引っ叩いたり、何かを投げつけたりするような動作を交えながら、それでも至って冷静に語った。
俺は「金」という一言に一抹の疑念を覚えたが、それは胸にしまった。
「……それっきり、20年くらい会ってない」
先生は、そう言って肩をすくめてみせてから、見慣れた形に腕を組んだ。
「でも、君のお母さんが、そんな愚かしい事をするとは到底思えない」
腕を組んだ状態から、右手だけが解き放たれて動き出す。知的さを感じさせるその所作が、俺は前々から何となく好きだった。
確かに、母が俺を叩くということは……無いだろう。しかし、過去に受けた【差別】というものが、未だに俺の心を支配しているのだ。吉岡先生や、隆一さんのような「理解者」は、日本人の1%にも満たないような気がしている。残りの99%は、同性愛者を忌み嫌い、もしも身内に居たら「嫌だ」「恥だ」と平気で言うのではないだろうか……。
先生は、黙りこくっている俺に、念を押すように告げた。
「最終的に決めるのは、君たち2人だ。『親』なんて関係ない。……だが、私個人としては応援したい」
俺は「はい」と応えてから、どうにも不恰好な座礼をした。
頭が乾いたら、すぐに御暇した。
独りでも順調に自宅の最寄り駅まで帰り着き、改札を出て長い地下通路を歩いていた。今は通勤や通学の時間帯ではないので、閑散としている。
すると突然、後方から来た誰かに肩を掴まれた。その勢いのまま振り返り、相手の顔を見上げる。頭や顔を殴られるか、腹でも刺されるのではないかという警戒心が一瞬だけ脳裏をよぎった。
傷つけられはしなかったが、身の危険は大いに感じた。耳や鼻だけでなく口元にまでピアスを着けた大柄な男が、俺の肩を掴んだまま、しきりに捲し立てている。しかし、何を言っているのかさっぱり解らない。……やはり俺の聴力は、大して「回復」などしていない。ごく限られた人の、特質的な声や洗練された話し方でなければ、まともに聴き取れないのだ。
それにしても、こいつは滑舌が悪すぎる。ピアスのせいか、口の動きも不自然で読めない。断片的に「車」とか「傷」とかいう単語が聞こえた気はするが、俺には誰かの車に傷をつけてしまったという記憶は無い。金銭目的の言いがかりか、人違いである可能性が高い。
俺が何も言わないことに腹を立てたのか、男は何度か肩を突いてきた。「なめとんのか!」くらいは、言われているだろう。誰の目にも明らかな「喧嘩の予兆」であるはずだが、止めに来る人は居ない。元より歩いている人は少ないが、皆、自分の身に危険が及ぶのは嫌なのだろう。
やがて、いわゆる『壁ドン』に近しい状態になった。粗暴な男の、煙草臭い息を間近で感じる。そして、相変わらず意味の解らない単語が断片的に降ってくる。
(“チショー“……って、何だ?)
解らない。それとも、怒りのままに「畜生!」とでも言ったか。
やがて「弁償しろ!!」と言われたのは、確信が持てる。しかし、俺にはそんなことをする理由が無い。……逃げてしまえば、良い。
俺は、渾身の力を込めて、相手の金的に膝蹴りを入れた。
あとはもう、何も考えずに走った。相手がどうなったか、振り返って見ることもなく。長い通路をまっすぐ走って、誰も乗っていないエスカレーターを、一段飛ばしで駆け上がる。こんな登り方をしたのは高校生以来だろうか。
心臓が、爆発しそうだ……!!
誰にも止められず、あの男に追いつかれることもなく、地上にたどり着いた。その時になって、やっと振り返って階段の下を見下ろしたが、誰も居なかった。
ひとまず、良かった。だが油断はできない。一秒でも早く帰ろう。
養鶏の仕事で腰痛を発症して以来、走る習慣が無くなった。更に、聴力が落ちてからは大きな声を出す習慣も無くなり、俺の肺活量は下がる一方だっただろう。今、それを痛感している。地上を歩いているのに、まるで「溺れている」ような気分だ。
俺達が住んでいる5階建てのアパートには、エレベーターが無い。その3階にまで上がり、どうにか自宅に着いた頃には、雨に打たれたかのように、汗で全身が濡れていた。
無言で玄関を開け、靴を脱ぐ気力も無く突っ立っていると、恒毅さんが出迎えに来てくれた。俺の異変にも、すぐに気付いたようだ。
「どうしたの?和真、息が……」
俺も、最近になってやっと「苦しい」の手話を覚えた。今 彼がやっているように、片方の手の指を全て、何かを掴んでいるかのように曲げ、胸の前でグルグル回すのだ。
「カ、カツアゲに……」
「遭ったの!!?」
「遭いそうに、なりました……」
「遭いそう、か。良かった……」
頭がクラクラするが、靴は脱がなければならない。壁に手を着いて、どうにか完遂する。
「怪我は無い?」
「たぶん……」
どこも、殴られてはいないはずだ。
「水か何か、飲む?」
「いや……それよりも、まず……着替えたいですね」
「わかった」
箪笥のある寝室へ行き、ひとまず下半分だけはすぐに着替え、上は裸のまま座り込んで汗がひくのを待った。
後から来た彼は、至極当たり前のように俺が脱いだ物を全て持ち去り、体が拭けるようにとタオルを置いていってくれた。俺はそれで真っ先に顔を拭いてから、胸と腋を拭った。
だんだん、身体が冷えてくる。それに伴って頭は冷静さを取り戻し、呼吸が整ってくる。まだ服を着る気にはなれないが、この姿のまま台所へ行って水を飲もう……と思った瞬間、彼がペットボトルを持ってきた。普段、米を炊くのに使っているミネラルウォーターだ。2リットルのボトルに、4分の1くらいは残っている。
俺は不明瞭な礼しか言えないままそれを受け取り、少し飲んでから、改めて彼に「ありがとうございます」と言った。
彼は「落ち着いた?」と訊いてきただけだった。
その問いに頷いた瞬間、ふと気が付いた。
俺は、今すでに彼の「息子」同然ではないか。……何を、迷うことがある。