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小説 「吉岡奇譚」 6

6.正義漢

 その日、私は旧友の玄ちゃんと外食をしていた。居酒屋で、早めの夕食だ。
 夫の帰りは遅いし、出費を気にせず好物をたらふく食べられるのは、非常にありがたい。彼は本当に善き友人である。(もちろん、夫の了承は得ている。)
 彼は、作業所の工賃が入るたびに私を誘ってくれる。

 2人で海鮮鍋を突つきながら、私は彼に近況を尋ねた。
「新しい作業所は、どうだい?」
「つまらない」
「畑のある所に移ったんだろ?」
「畑、使ってない。職員が、嘘吐き」
「それは良くないなぁ……」
「僕らのこと、子どもみたいに思ってる。ひどい。そいつのほうが若いのに」
「おやおや」
彼は、また近いうちに辞めるのだろう。

 彼は、私と違ってたくさん酒を飲むし、豚肉も好んで食べる。私は、同じ鍋に豚肉が入っているのでなければ、気にしない。他の誰かが目の前で食べているからといって、止めたりはしない。
 彼は今、生ハムがたくさん乗ったサラダを一人で食べている。私は、海鮮鍋と併行して寿司と焼き鳥ばかり食べている。
「先生、僕『作業所』を作りたい」
「君が作るのかい?……そりゃあ、大胆な発想だねぇ」
「畑を買う」
彼なら、父親さえ説得できれば初期費用には困らないとは思うが……単なる「空想」である可能性が高い。
「だから、素敵な社長を探しているんだ」
「そこからかい?長い道のりだねぇ……」
「先生、誰か知らない?」
農業と福祉の両方に詳しく、更には経営者となりうる人など、そうそう簡単には見つからない。
「うーむ。……ちょっと、思い付かないなぁ」
私は腕を組む。
「あ、そうか」
「何?」
「弟に訊いてみるよ」
私の弟は今、遠方に居るとはいえ、農業関係者である。そして、奴は理解に苦しむほど顔が広い。訊いてみる価値はある。
「善治くん、今は どこの国に居るの?」
「日本に居るよ。農作業用のロボットを作っているんだ」
「へぇ、凄い!」
「素敵な社長になれそうな人を、知っているかもしれない」
「いひひひ……やったぁ」
そろそろ、彼が酔ってきた気がする。

 鍋が空になった頃、彼は炒飯を食べながら、私に訊いた。
「先生。『アイデア泥棒』は、捕まった?」
「捕まらないよ。……私は、警察に それを話していないからね」
「どうして?」
私は、そろそろ煙草が吸いたくて堪らない。
 彼に断ってから、1本目を吸い始める。
「警察なんて、よほど大きな『実害』が出ない限り、動かないよ。交通事故とか、お店の商品が盗まれたとか、誰かの行方がわからないとか、誰かの遺体が見つかったとか……。
 値段の付いていないものが盗まれたくらいで、いちいち動かないよ。しかも、もう20年以上も前のことだよ?証拠も無いし……。私の手帳を見たら『こいつは妄言を吐いている』としか思わないだろうよ」
 私は以前、彼に「私が過去に手放したパソコンを悪用している奴が、この世界のどこかに居るに違いない」と話したことがあるのだ。
 近年になって出版された漫画や、人気を博した映画に、自分が過去に書いた物語と似通った点が多数あるように思えてならず、また、どうも私の『発言』や『過去に送信したメールの内容』が、街中で噂になっているようなのだ……という話を、彼には何度も聴いてもらった。
 その感覚のことは、医師には「妄想」と言われた。(私は納得していない。)

 パソコンの悪用も腹立たしいが、更に気味が悪いのは、自らの手でインターネット上に公開した情報ならともかく、職場内や誰かの車の中で「口に出しただけ」の情報が、まるで世界を駆け巡っているかのようなのである。
 私が、過去の二度に渡る軟禁状態にあった時に吐き出した言葉の数々を、この玄ちゃんと知り合った作業所の職員達は何故か熟知しており、私は、それを論拠に、まるで過去にブレイクしたお笑い芸人か何かのような「イジり」を受け続けた。
 当時の私にとって、それは【侮辱】以外の何物でもなかった。悪徳企業による偏った洗脳や、常軌を逸した過重労働、あるいは薬物の影響で「精神が壊れていた」時期のことを、まさか福祉施設の職員にまで嗤われるとは思っていなかった。切実な悩みの種である病理現象や、人権侵害行為によって生じた【心的外傷】を、茶化さないでほしかった。私の病態は「コメディアンによるパフォーマンス」ではないのだから、私は断じて「笑い」など求めてはいない。福祉施設の職員が、利用者の病歴を嗤うなど、良識に欠けるとしか言いようがない。
 おそらく、インターネット上には、数えきれないほどの、私の『偽者』が居る。
 勤務先で上司と面談をした帰りに、電車の中で、見知らぬ高校生達に その面談の内容について揶揄されたことさえある。(あの上司が、何らかのSNSにでも投稿したのかもしれない。実に ひどい話である。)
 私には「プライバシー」も【人権】も、認められていないのだ。

(あぁ……駄目だ。悪い癖だ。また、岩くんに叱られてしまう……)
 私は、いくつになっても、『過去』のことを想起しだしたら、止まらないのだ。(時系列だってバラバラだ。)会話の途中であっても、黙り込んで、そればかり考えてしまう。
 思わず、頭を掻く。
「先生。『岩くん』って誰?」
酒を飲みながら、玄ちゃんが訊いた。
「え?……口に出していたかい?」
「誰?」
「この前 溺れた、私の友達だよ」
「お友達が、先生を叱るの?」
「私が身体に悪いことをしたら、いつも叱ってくれるよ。優しい人だから……」
「今、煙草を吸ったから?」
「……そうだよ」
そういうことに、しておこう。
「言わなければ、判らないよ」
「確かに、そうだね」
私は、2本目に火を点ける。
 今回の葉の配合は、気に入っている。うまく出来た。

「先生。この前、ラジオでね……」
彼からの、いつもの報告が始まった。
「今にも死にそうなお兄さんから、SOSがあったんだ」
「ほぉ」
彼だけに聴こえる【番組】の話か、あるいは空想の話かもしれない。
「住所を言っていたから、僕は、そこへ行ったんだ」
「本当かい?」
「そしたら……お兄さんは、もう……骨になってた。間に合わなかった」
「……悪夢のような話だね」
本当に、睡眠時に見た夢の話かもしれない。
「僕は、その骨を警察の人に見せたの」
「そりゃあ、そうするよね」
「間に合わなかった……。それでも、僕は、お兄さんのためにお花を買って、ごはんを作って、一緒に食べたの」
「誰と?」
「お兄さんと」
(夢の中で、幽霊と食事をしたんだろうな……)
「彼は、喜んでくれたかい?」
「どうだろう……分からない。ずっと泣いていたな。『お母さんに逢いたい』って……」
「お母さんは、まだ生きているということだろうか」
「悲しいなぁ……。お兄さんは、仕事をクビになって、食べるものが無かったんだ」
玄ちゃんが、しょんぼりとして、ぐすんぐすんと泣き始める。
「僕、食べるものを作りたい。……美味しいキャベツを作るんだ」
(どうしてキャベツなんだろう……?)
「どこかの農場に就職したら?」
「僕を馬鹿にしない農場は、あるかな?」
「いくらでも在るだろ。君は仕事熱心だもの。馬鹿にされるような人間ではないよ」
「ううぅ、先生は優しいなぁ……」


 店を出て、駅までの地下通路を歩く間も、玄ちゃんは しょんぼりしたままだった。
 いつものヘッドホンを、耳には当てず首にかけている。
「僕が音楽を聴いているだけで、笑う人が居るんだ」
「放っておけばいいよ。そいつらが、笑いたいだけだから」
私が彼に言う言葉は、概ね、私が自分の耳に聴かせたい言葉でもある。
「先生は、今も電車は嫌い?」
「そうだね……。好きではないね」
「僕、電車の中で、先生を笑う奴が居たら殴ってやるよ」
「……お気持ちだけ頂戴するよ」
「どうしてさ!?気分が悪いじゃないか!」
「君が捕まったら、嫌だもの」
「先生は真面目すぎるよ」
「そんなことはない」

 地下通路を進み、目的の路線の自動改札機が見えるところまで来た時、彼は突如、何やら神妙な面持ちで「ごめんなさい、先生」と言った。
「どうしたんだい?」
「僕、行かなきゃならない所がある」
「何か買うのかい?」
「僕、今度は『間に合う』と思う」
「何にだい?」
私の質問には答えず、彼は走りだした。
 私は、反射的に彼を追いかけた。
「玄ちゃん!?」
彼は、自動改札機に背を向けて、来た道を引き返し、やがて地上への階段を駆け上がる。
 彼は私よりも大柄なので、歩幅がまるで違う。走るのも、上るのも、運動不足の私などより、断然、速い。
 それでも、私は彼を追う。どんどん、引き離されていく。
 彼と私は歩道橋を渡り、駅周辺の人通りの多い一帯を走り抜け、人気ひとけの無い商店街へ駆け込む。照明こそ点いているが、ほとんどの店舗がシャッターを降ろしている。
「どこへ行く気だ!?」
彼は、私が後を追っていることに気付いていないのかもしれない。終始無言で、全力疾走である。いよいよ見失いそうだ。
 息が切れてきた。
 彼がこの商店街のどこかに居ることは判っているから、ひとまず足を止める。
「ハァ……ハァ……」
思わず、両膝を掴む。
 食後すぐに走ったので、非常に脇腹が痛む。
(何かを、聴いたのか……?)
彼だけに聴こえる【番組】で、今も、誰かからのSOSが流れているのかもしれない。

 どうにか呼吸を整えていると、遥か前方から、若い成人男性のものと思しき罵声が聴こえた。つい先ほどその方向に走っていった玄ちゃんが、通行人と喧嘩をし始めたように思われた。
 私は、再び走りだした。

 商店街は奥で丁字路となっていて、彼らは角を曲がった先に居た。路面に自転車が倒れており、その持ち主であろう若い男と、玄ちゃんが揉み合いになっていた。
 玄ちゃんが、男からトートバッグのような物を奪い取った。
「玄ちゃん!何をしてるんだ!!?」
私の接近に気付いた男は、玄ちゃんの上着から手を放し、倒れていた自転車を起こして跨った。
「先生!こいつ、ひったくり!」
玄ちゃんは、空いている左手で、動き出した自転車の荷台を引っ掴もうとしたが、私は「危ない!やめろ!」と叫んだ。盗られた荷物を取り返せたのなら、深追いすべきではない。(犯人の自転車には、盗品らしき物はもう何も載っていない。)
 玄ちゃんは、私の声に従った。自転車は そのまま走り去る。犯人の背中に向かって「馬鹿ー!」と叫ぶ玄ちゃんの右手には、奪い返したトートバッグが、しっかりと握られている。
 私は、やっと彼に追いついた。
「誰のものだい?それは……」
私は、まだ息が上がっている。
「そこに居る女の子のやつなんだ」
彼が示した方向には、路地がある。
 トートバッグの持ち主は、大人の男性の闘争を目の当たりにして、咄嗟に そこへ隠れたのだろう。

 路地を覗くと、大きなゴミ箱の裏に、人の気配がある。誰かがしゃがみ込んで隠れている。
「取り返しましたよ」
 玄ちゃんの呼びかけで姿を見せたのは、リュックを背負った、10代後半と思しき少女だった。スポーティーな格好をして、中性的な雰囲気ではあるが、体型をよく見れば、女子だと判る。
 しばらく私達を警戒して近寄らなかった彼女は、玄ちゃんが差し出したトートバッグをようやく受け取ったら、深々と頭を下げた。しかし、礼も何も言わず、駅とは反対の方向へ、逃げるように走り去った。怖い思いをして、気が動転しているのだろう。
 私達が、彼女を呼び止めたり、追いかけたりする理由は無い。
「日本語が解らないのかな……」
「あり得るね」
それでも、彼女はお辞儀をしてくれた。
「何にせよ、君や彼女に怪我が無くて良かったよ」
 玄ちゃんは、彼女が走り去った方向を、しばらく見つめていた。
「先生……あっちの駅から乗ってもいい?」
この商店街の先には、私達が電車に乗ろうとしていた駅の、隣の駅がある。
「私は別に構わないよ」
 私は、歩くのが大変好きである。


 隣の駅まで歩きながら、私は彼に訊いた。
「ところで、玄ちゃん……君はどうして、突然 走りだしたんだい?」
「女の子の声が……聴こえたから……」
「SOSってやつかい?」
「そうだよ。……『苦しい』『助けて!』『痛い!』って……」
「さっきの彼女の……『心の声』ってやつだろうか?」
これは、私の空想である。
「あの子じゃなかったのかもしれない……分からない……」
「でも、彼女の荷物を、泥棒から奪い返せたじゃないか。それは良いことだよ」
「うーん……」
玄ちゃんは、腑に落ちない様子だった。
「僕、この近くで働こうかなぁ……」
「そんなに彼女が気になるのかい?」
「だって……その声は、まだ『痛い、痛い』って、言い続けているんだもの。どこが痛いんだろう?可哀想に……」
「玄ちゃん。今日はもう、ヘッドホンを鞄にしまって帰りなよ。そして、できるだけ早く寝るんだ。働く場所を考えるのは、明日にしなよ」
「……そうする」
彼は、素直にヘッドホンをボディーバッグにしまった。


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【7.自由な暮らし】
https://note.com/mokkei4486/n/nc11179ef227f

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