小説 「吉岡奇譚」 31
31.自らを「ゴミ」と云う
ある朝、倉本くんが起き抜けに吐いてしまい、そのまま横になった。徐々に固形物が食べられるようになってきた矢先だった。
熱発はしていないが、布団の中で、うわ言のようにも思える言葉を、口にし続ける。
「ごめんなさい……ごめんなさい……僕、僕……あの……掃除……」
「気にしなくていいよ。……ゆっくり休んで」
横向きに寝かせた彼の耳に、少しだけ顔を近づけて話す。
枕の上には折り畳んだバスタオルを敷いてやり、唾液を気にしないで寝ていられるようにしてある。
「あの……これ……救急車とかは、要らないので…………寝ていれば、治るので……」
「わかった。ゆっくり休むんだよ」
肩を叩いてやる。
夫は、彼を心配しつつも、予定通り出勤していった。
倉本くんが寝る和室には、ずっとバケツが置きっぱなしだ。
毎日、彼にはスポーツドリンクと野菜ジュースを飲ませている。
(箱で買っておかないとなぁ……)
彼が再び嘔吐する様子は無いので、私は ひとまず2階に上がった。リビングで、藤森ちゃんに重要な封書を手渡す。
「藤森ちゃん。お待ちかねの『年度末賞与』だよ」
私が手渡した明細票を、彼女は緊張した面持ちで受け取り、深々と頭を下げた。
「賞与が出たら引越す」と言って、心待ちにしていたはずだが、私が見ている前で、開封はしないようだ。
「ところで、今日は飲み物を『箱買い』したいから……私が、車で買い出しに行こうかと思うのだけれども。倉本くんのことを、お願いしてもいいかい?」
彼女は、力を込めて頷く。
「よろしく頼むよ。……他には、何が要る?」
彼女と共に冷蔵庫を見て、購入すべき品を考える。
倉本くんのことを彼女に任せ、私は車を走らせた。
大型スーパーで、夫の好きなスポーツドリンクを2箱と、弟が愛してやまない「二日酔い予防」と「吐き気止め」に効果があるという野菜ジュースを1箱、購入した。レトルト粥も箱買いした。
彼のことが気がかりなので、買い物は ごく短時間で済ませる。
帰宅し、箱を全て玄関に降ろしたら、まっすぐ和室に向かう。
「ただいま。彼の調子はどう?」
彼女は、渋い顔をして、首を横に振る。
彼は、私が出かける前と同じ体勢のまま、ずっと うわ言を繰り返している。涙声になっている気がする。
「あまり、良くなさそうだね……」
彼の視界に入る位置に座る。
「大丈夫かい?」
呼びかけには応じない。ずっと、一人で空中を見つめ、ぶつぶつと何かを話している。
とても小さな声で、発音も不明瞭だが、時折「こんな所は、日本じゃない」とか「一緒に逃げましょう」と、言っている気がする。
「倉本くん?」
肩に触れると、ビクッと大きく動き、「うわぁ!」と声をあげた。
「驚かせて、ごめんよ……」
動揺を鎮めるように、肩を叩く。
「また……何か、妙な夢を見たかい?」
彼は、問いには答えない。
起き上がって時間を訊いてきたので教えてやり、私が「お粥でも食べるかい?」と訊くと、彼は「いただきます」と応えた。
胃腸の弱い坂元くんが言うには、食中毒ではなく、自律神経の不調から吐いてばかりいるような時は、少量の汁物か粥料理を一日に5〜6回食べて、胃に負担をかけずに栄養素を摂るのが良いらしい。
一人暮らしが長い彼は、体調を崩して、自分で粥を炊く元気も無い時は、レトルト粥や缶詰、インスタントスープあるいは牛乳を活用して「風呂に入るエネルギー」を確保するという。「電子レンジと電気ケトルさえあれば、人間は とりあえず生きられる」とも言っていた。
私は倉本くんに「かつお粥」と、藤森ちゃんが作った味噌汁を食べさせた。
彼は、ほとんど噛まずに、それを飲み込む。
「味はする?」
「……いいえ。ほとんど、何も……」
彼は「何を食べても苦い」と言っていたことがある。
味覚に関しては、しばらく様子を見るしかないだろう。
「あの和室は、あまり日当たりが良くないから……しばらく、この部屋で陽に当たると良いよ」
食事を終えた彼を、室内とはいえ「日向ぼっこ」に最適な場所に座らせてから、私は野菜ジュースの箱を持ってくる。その中の1本を、彼に与える。
彼は、礼も何も言わない。不思議そうに、ペットボトルのラベルを見ている。
「あの……先生……僕は、いつ仕事を辞めましたか?」
彼にも『健忘』の症状があるのは、間違いなさそうだ。
私は、座って背中に陽を当てている彼の、真正面に腰を降ろす。
「キノコ栽培を辞めたのは、一ヵ月くらい前ではないかな?……私は、よく知らないよ」
「キノコ……?」
「玄さんと同じ作業所で、椎茸の世話をしていただろ?」
彼は、力無く「分かりません……」と言って、目を伏せる。
「……憶えていないのかい?」
「ほとんど、何も…………ただ、カメラの付いた部屋に一日居て……よく知らない人が、何人も……僕のことを、嗤っていて……」
彼は、ずっと床やペットボトルに視線を落としたまま、ぽつりぽつりと、沈んだ声で話す。
私が居た作業所にも、防犯カメラはあった。クレームに繋がるミスや、盗難、利用者同士の喧嘩等に関する『証拠』を残すためであるが、作業に没頭していれば、いずれ気にならなくなる。
とはいえ、私も 初めは そのカメラが、とても怖かった。常に監視された中で作業をしているようで、ずっと不安だった。
嘲笑や監視を恐れて満足に動けなくなる心理は、よく解る。
「それが嫌で、自分から『辞めます』と、言ったんだろう?」
「……憶えていません。ただ……笑い声が苦しくて、ほとんど動けずに居たら……毎日、昼ごはんを食べながら、職員に説教されるようになって……いきなり『もう来なくていい』と、言われた気がします」
(動けない理由を聴き出して、動けるように作業環境を整えてやるのが、職員の責務だろ……。馬鹿げているな)
「僕は……たぶん『ゴミ』です。誰も……僕なんか、要らないんです。たぶん」
「そんなことはないよ」
「どれだけ、真面目に働いても……仕事とは無関係な理由で、殺されます」
「……君は、生きているよ」
「たまたまです。……僕は、何度も『死ね』と言われて、首を絞められて、毒を盛られました。……鶏の死骸と一緒に、棄てられそうになりました」
「……でも、君は、そんな酷いところを『生きて、辞める』ことが出来ただろう?」
全てが「事実」かどうかは分からない。妄想や悪夢、誇張表現が混じっているかもしれない。
しかし、私は彼の言い分を、否定も肯定もしない。深く追及はしない。
「僕は……どこへ行っても、また笑いものになって、最後は……今度こそ、殺されてしまうと思います」
「……少なくとも、私は、君の生命を奪ったりはしないよ」
私が彼と【禅問答】をしている間に、藤森ちゃんは淡々と玄関にあった箱を2階に持ち込み、中身を冷蔵庫や戸棚に しまっていく。
「君は……まずは、お腹を治して、毎日しっかり太陽の光を浴びて、たくさん歩いて……身体を治すことだけ、考えていればいい。……君は、何のために家を出た?」
「親と……離れるためです」
「そうだ。親から離れて……生きるためだろう」
「……そうです」
「それでいい」
昼食後。3階に上がって、ベランダで煙草を吸う。
「働きもしない日に、午睡をしてもなぁ……」
純然たる独り言である。
早めに粥を食べて腹が膨れていた倉本くんは、私と藤森ちゃんが昼食を食べている横で、一人黙々と私の著書を読んでいた。
「どうしたものかねぇ……」
私は、煙と言葉を吐きながら、今後の【作戦】を考える。
彼の静養に力を貸してやりたいことに相違は無いが、そろそろ、両親や支援員が彼を捜し始めてもおかしくない。
彼は「就活だ」と偽って家を出たというが、到底 働ける状態ではなく、障害年金を受給している。しかし、彼の父親は「障害年金を受給しながら 最低賃金が受け取れる 福祉作業所」での就労を強要し、病身の彼から「部屋代」を巻き上げ続けてきた。支援員も「息子を再就職させるために付けた」という印象が否めない。「まずは身体を治す」という当たり前の発想が、彼の両親には無さそうだ。
かつての自分を見ているようで……辛い。
彼の両親が、彼の居場所と現状を知ったら……少なくとも父親は、激怒するような気がする。
しかし、父親が どれだけ怒ろうとも「成人が、自らの意思で知人宅に身を寄せている」という状況なのだから、彼や私達の行為に違法性は皆無だ。彼の両親に、あえて私から連絡をする必要性は……無いだろう。(悠介に至っては、互いの親とは一切の面識が無いまま、婚姻にまで至っている。)
煙草の火を消して室内に入る。2階に降りようとしたら、下から藤森ちゃんが上がってきた。
「どうした?」
私は、降りるのをやめて、3階で待ち受けた。
上がってきた彼女は、予め書いていた【引越しのことで、相談があります】という文章を見せてくれた。
私は快諾し、2人とも座れるように資料室に招き入れる。
着席するなり、彼女は素早く何かを書いた。
【ボーナスの金額を見て、驚いています】
どこかの正社員ほどの金額ではない。
「君は、よく働いてくれたからね。『休日』返上で働いて、朝ごはんまで作ってくれたし……」
【次の休日にでも、正式に住所を移します】
「……もう、契約だけはしてあるのかい?」
彼女は頷く。
「なるほど」
【大変恐れ入りますが、家具・家電を買い揃える時に、ご協力いただけますか?】
「もちろん。私は……家電には、あまり詳しくないけれども。車なら出せるよ」
彼女は深々と頭を下げる。
「新生活かぁ……わくわく するね」
私には目もくれず、彼女は黙々と「次」を書く。
【ところで、倉本さんは、いつまで この家に居るのですか?】
「まだ……何とも言えないね。今の彼には、ゲストハウス暮らしも、難しいだろうから」
【ご自宅には、帰れないのですか?】
「……彼の家庭も、複雑なんだ。端的に言えば、お父様との関係が非常に良くない。……彼も、家庭内で暴力を受けたり、治療費すら出してもらえずに、働くことを強要されたり……なかなか、辛い思いをしてきてるんだ。実家には……帰せないね」
【わかりました】
「ごめんよ。突然、難しい仕事を増やしてしまったようで……」
【そんなことは、ないです】
「……君が、優しい子で良かった」
彼女は返答に困っている。
「私は今のところ、急ぎの仕事は何も無いから……彼のことは、基本的には私が看ようと思っているよ。君は、自分の新生活を優先してくれればいい。……半休とか、外出とか、必要なら いつでも言ってくれ」
【わかりました】
夫が帰宅し、風呂に入った後、心配していた倉本くんに体調を尋ねたが、彼は またしても「課長」とか「場長」といった役職名や、私達の知らない人物の名前、養鶏業に関する用語を含んだ文章ばかり、一方的に口にする。脈絡のある「会話」にならない。
「ごめんな、和真……俺、鶏の話、よく分かんねえわ……」
夫は、頭を掻きながら、詫びの言葉を口にする。
「今日は、早く寝たほうがいいな」
その後、大きな欠伸をしてから「俺も、早く寝たいよ」と言った。
「……ほら、寝るぞ」
倉本くんの背中を叩いて、立ち上がるよう促し、そのまま1階に連れて行った。
彼らに挨拶をして見送った私は、同じくリビングに残った藤森ちゃんに声をかけた。
「電器屋さんに行くのは……悠介が休みの日にしよう」
彼女は「わかりました」と応じた。
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【32.新生活】
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