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小説 「吉岡奇譚」 4

4.彼の物語

 朝の散歩を終えて、帰宅する。今日は小雨が降っていたので、屋外で読書はしていない。傘に当たる雨の音を楽しみながら、静かな公園を通り過ぎ、通い慣れたコンビニで買い物をしてきた。
 持ち帰った傘は、外で水滴を払ってから、玄関で広げて乾かしておく。

 10時にもなれば、ハウスキーパーの坂元くんが出勤してくる。勤続5年目になる彼は、基本的には週5日、食事の用意と、掃除、その他諸々、家事全般を、期待以上のクオリティーで やってくれる。家の中での仕事だけではなく、私や夫の外出に付添ってくれることもある。また、私は彼の出勤後に一人で出かけることもある。彼になら、安心して留守を任せられる。
「おはよう」
「おはようございます、先生」
彼が私用等で昼や夕方に出勤しても、私は必ず「おはよう」と言って迎える。その日、初めて会った時、あるいは『出勤』の挨拶というのは「おはよう」で統一しているのだ。(私は、過去に勤務していた町工場の慣わしを、今でも大切にしている。)
「随分と濡れているじゃないか」
「雨、強くなってきました」
彼の着替えも、この家にある。2階のリビングの一角に、彼専用の荷物置き場を作ってある。

 タイムカードを押してから、ズボンと靴下を替えた彼は、すぐに台所で手を洗い、冷蔵庫の中を確認する。(雨に濡れたものは、ビニール袋に押し込められてから、荷物と同じ棚にしまわれている。)
 私は、今のところ急ぎの仕事は無いため、リビングで のんびりとテレビを観ていた。
 録画してあった、野生動物の暮らしぶりに密着した番組だ。今回は、私の好きなトラが主役だ。……トラの仔というのは、本当に可愛い。何度見ても、飽きない。
 出勤直後の確認を終えた彼は、お茶の入ったカップを2つ持って食卓のところへやってきた。彼は、私達が飽きないように、あるいは体調に応じて、様々な種類の茶葉を使い分け、時にはブレンドする。彼も、なかなか研究熱心である。
「先生。今日は、お出かけしますか?」
「いや、特に予定は無いかなぁ……」
「車をお借りしてもいいですか?」
「いいよ」
「ありがとうございます」
生真面目な彼は、頑なに『他人行儀』を崩さない。いつも、耳に心地良い中性的な優しい声で、易しく清らかな日本語を話す。誰に対しても、物腰は柔らかい。自分より歳下であると判っている私の夫にも、適度にやわらかい敬語で話す。時折、北海道の方言らしきものが出る。
 私は、彼がよく夫に言う「なんもなんも」という決まり文句が、特に好きである。英語でいうところの「Don't worry.」とか「No problem.」に相当するフレーズだろうとは思うが、残念ながら、私にそれを言ってくれたことはない。雇用主である私に対して用いるのは相応しくない、くだけた表現なのだろうか……?
 いずれにせよ、彼は真面目すぎる。

「ところで、先生。また新作が出来たんですよ」
「新しい創作料理かい?」
「いや、そうではなくて……小説です」
「おぉ!」
彼は、私とは違い、純然たる趣味で小説を書いている。初めは、私か、当時の私の担当編集者くらいにしか読ませなかったようだが、今では、それをインターネット上で公開している。私も、ふと思い出したらサイトにアクセスして、彼の作品を読んでいるのだが……彼は、ひとつの長編が完結したり、新しい連載を始めたりしたら、いつも律儀に教えてくれる。
 私は、そんな彼のファンである。僭越ながら、何枚かファンアートを贈ったこともある。
「長編かい?」
「あ、はい……。高校の頃に書いた話を、リメイクしました」
「へぇ」
 彼自身からは「うつ病」だと申告を受けているが、私が思うに、彼には おそらく創作活動に纏わる心的外傷があるし、その生活習慣からは不安障害の兆候が見て取れる。基本的には、好きな料理研究を楽しみながら、冷静かつ合理的に仕事をこなし、落ち着いた様子を見せているが……時折、特に連休明けは「街を歩くのが怖い」「電車に乗るのが怖い」と言い、それを理由に欠勤こそしないが、泣きながら仕事をしている日がある。本人は「ただ涙が出ているだけです」「風邪や花粉症で鼻水が垂れるのと同じです」と言うが、私は、その姿を見たら、彼をいたずらに刺激しないよう、独りにしてやることにしている。
 そして、不思議と、彼は私の夫が居る前では泣かない。

「坂元くん。明日、岩くんが来るよ」
「僕も連絡 受けてます」
「よろしく頼むよ。彼は、たくさん食べるから……」
私の善き友人、初代担当編集者「岩くん」は、今でも時々この家を訪ねてきて、仮眠を取りながら仕事をする。そして、最低でも一食は食べて帰る。
「献立に迷ったら、とりあえず餅を出しておけばいいよ。好きだから」
「そうなんですか?わかりました」
 このハウスキーパーの坂元くんは、自身と同学年であるはずの岩くんを「哲朗さん」と呼んで慕い、明らかに「目上の人」と位置づけている。
 彼らは常に、お互いに敬意を持って尊重し合い、時に助け合う。見ていて非常に気持ちが良い関係性である。


 坂元くんが帰った後、私は、スマートフォンで彼の最新作を読んだ。
 真摯な彼が紡ぎ出す物語は、優しくて温かい。読むと、勇気が湧いてくる。
 素敵なクリエイターだと思う。是非とも、書き続けてほしい。


次のエピソード
【5.悪夢】
https://note.com/mokkei4486/n/n50a8b127c9c4

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